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12月26日号 画家と画商。

 松下くんと出会ってから10年、このプロジェクトがはじまったのが2001年だから、現在販売しているお米で、7作目ということになる。
そんなことに気がついた時、ふとこんなことを思った。
「僕らのこの関係は、画家と画商の関係のようなものかもしれない・・・?」

 そんな風に思ったのは、松下くんと小生のような関係が、そうどこにでもあるような、あるいは誰とでも作れるような関係ではないということに、気がついたからだ。
僕らのこの関係、これは単に生産者と販売店というだけの関係以上に、何かを生み出そうとするクリエイティブな要素を多分に含んでいるからだ。というより、そのものと言ったほうが正しいだろう。
松下明弘という稲作アーティストは、自らの場でできる、あるいはここでしかできない。という価値を表現することが、作家(生産者)としての喜びであり、それを可能にするための様々な技術の集積が、作風そのものとなって、作品(米)の味となって表現される。
またそれを販売する米屋の小生は、彼が何を考え、何も表現したいかという思いを汲み取りながら、それが適切に表現できるようにアドバイスし、場合によっては作家自身も気がつかないような、新しい価値別の価値をも見つけ出す。そしてそれを社会に提案する。
二人の関係、二人の仕事の分担とはこのようなものなのだ。

 小生は画商という仕事の本当を知っているわけではないけれど、アーティストと社会との接点を担うという存在としての画商がいるならば、画商とはきっとそういう仕事を、作家と社会双方に期待されるに違いない。そういう意味で、小生は例えて言うなら、画商のような仕事をしているような気がしているのだ。

 以前は、そのような関係性を、他の誰とでもできると思っていた。優秀な稲作生産者は日本中数多いる。そういう人達と、このプロジェクトのような仕事を多く手掛けてみたいと思っていた時期があった。ところがじっさいはそんなに簡単なことではなかった
問題は松下くんのように、たんに食べ物として美味しい米を栽培するということ以上に、米で何かを表現する。あるいは、米が何かを表現する。というような無形の何かクリエイトする発想を持てる人、足元にあるありのままの田圃に眼を向け、必然と作為の間にオリジナリティを見つけ出すことのできる人。そういうことに価値を見出す人は案外少ないことに気がついたからだ。まあ、人のせいにしてはいけませんね。これは小生自身の問題なのかものしれません。

 小生が求める米とは、どうもそういう風なものであること、それが一般的には難解に聞こえるらしいこと、その意味することやその可能性について多くの人達にとってはどうでもいいことであり、米の中にそのような価値を見出せなくても別段かまわないと思っていること、そういうことに今頃になって気がついたのだ。
でもこのことはきっと将来、多くの人が必ず眼を向けなくてはならない時が、必ず来るに違いないと思っています。とくにニッポンの農業において、そのような探求が、ニッポンのニッポンらしい稲作の有り様、あるいはニッポンの稲作の価値が最も発揮されるであろう切り口だと思えるからです。またこれこそニッポン人の得意分野だと思えるからです。

 松下くんと出会って10年目の2008年、もしかするとそんな出会いが、またやって来るかもしれません。しかし、焦らずコツコツとやっていこうと思ってもいます。稲作は一年一作、そういうペースがもっとも無理がなく自分にとって自然なリズムだと感じているからです。

 


たぶん本人は、いつも自然体。
たぶん本人は、いつも自然体。
2007年01月28日 [ 3391hit ]
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