「暑い・・・」。
日中の気温が35度を超えている。日曜日、静岡県磐田市の米生産者のところへ行った帰り道、藤枝の松下くんの田圃へ寄ってみた。案の定、園主の松下くんは居なかった。居ても居なくても、ひととおり定点観測している田圃を見て廻るのが通例なのだ。
たしか6月頃、この夏の長期予報では、「冷夏の可能性も・・・?」なんて予報だったような気がしたが、なんてことはない猛暑いや、酷暑の夏となりました。いやまったく参りました。
ニュースを見ていれば、どのチャンネルでも、まあだいたい地球温暖化関連のニュースを耳にします。先日も北極の氷が想定されていた以上のペースで減っているとか・・・。いやはや30年前、たぶん小生がガキの頃に実しやかに語られていたようなことが、現実に起こり始めたようです。
じつは田圃の世界でも、ここ10年くらいの間に温暖化による影響が出始めているような気がします。「稲の高温障害」という言葉は、かなり以前から耳にしていたものですが、近年では毎年どこの産地でも大なり小なり耳にするようになりました。日中の高温はもちろんのこと、夜間も気温が下がらないことによる米の品質劣化のことです。それと害虫の被害も多くなりました。その象徴が「カメムシ」です。出穂後数週間、まだ柔らかい生まれたての米粒にとりつき、米粒の一部に黒い斑点を残す厄介な害虫です。
まあ、これらすべての原因を地球温暖化のせいにするのは、やや短絡的な気もしますが、まあかなり有力だと思うのは、たぶん小生だけではないでしょう。
しかし稲という植物にしてみれば、この温暖化、もしかすると歓迎すべきことなのかもしれません。少なくとも稲の勢力圏が、以前にくらべて高緯度地域、あるいは標高の高い地域へ進出しているように見えるからです。
ただこれらは、稲それ自身の生命の覇権争いという点において有利なことかもしれませんが、我々人間にとってある意味都合の良い稲、もっと簡単に言えば、「美味しい米の獲れる稲」という点で言うと、それはまたいろいろな意見もあるようです。
じつは小生が、そういう視点で稲を見ることができるようになったのも、松下くんの田圃に通うようになってからなのです。
松下くんは稲について、口癖のようにこう語ります。
「植物は自ら歩くことも飛ぶこともできない・・・だから彼らは、彼ら自身の中に様々な可能性、戦略を用意している・・・例えばそれは人間に取り入り、人間が好むように、自らを変化させてきた・・・これは彼らの周到な戦略なのかもしれない」。
小生が田圃通い始めてからのここ8年間でも、稲たちの用意周到な生き残り戦略を垣間見る機会が何度かあった。
寒い夏の年に見た、緊急出穂や粒数制限。まさに「選択と集中」だ。しかも田圃全体に統一した意思があるかのような振る舞い。選ばれた個体が数株、スクランブル発進するかのように他がまだ準備が整う前に出穂を見せたりするのだ。
人間に取り入るという点では、松下さんが発見育種したカミアカリの出現も興味深い。巨大胚芽の突然変異、人間が興味を持つような他とは違う個体を、稲に人一倍興味のある人間の前に出現させるのだ。
もちろんこの現象は偶然であることに違いないはずだが、巨大胚芽の突然変異が発生すること、それを拾うこと、またそれを独立した別の個体として育て品種として育てあげること、その可能性の確率を試算してみようと、その世界の専門化に相談したらこんな一言が返ってきた。
「天文学的数字、ありえません・・・」
偶然に違いないけど偶然とも思えない。稲とは、植物とはそういう存在なのかもしれない。
無理にポジティブに考える必要はないとは思うが、この地球全体が温暖化する中でも、それを生かした稲作もあるとも思えるのです。少なくとも夏が長くなっているのですから、栽培時期の設定を見直すことも充分可能です。例えば12月に稲刈りをする栽培スケジュールだって可能になるかもしれません。
もしかするとそういう発想の転換が、他とは違う何か?オリジナリティを育む要素になるかもしれないのです。
じつは、このアンコメ米作りプロジェクトで栽培されている「ヒノヒカリ」と「あさひの夢」は、暑くなり過ぎてしまったこの地域(志太平野)でも品質を良い米を生産するために知恵を絞った結果選ばれた品種なのです。また栽培スケジュールに関しても登熟期間が夜間気温の下がる8月後半以降になるように調整しています。また地域に根ざした有機素材で作られた肥料などのおかげで、この地域らしい個性が表現できるようになったとも感じています。
生産者もまた稲同様に、おいそれと田圃を動かすことができない存在です。その田圃が持つ様々な条件を受け入れ、そこで何ができるのかを考え、知恵を出し工夫をすることで思っても見なかった活路が導き出されるのです。
しいて言えば「ないものねだり」ではなく、「ありもの探し」ということです。きっとこのような積み重ねこそ、いつしかそこにしかないオリジナリティをも生むものと小生は信じているのです。栽培者あるいは稲自身も気が付かないうちに。