「9時に六合駅で・・・」
そんな約束した相手は金谷在住のSさん。以前、そのSさんに松下くんの田圃では6月には豊年エビが出現するという話しをしたら、「ぜひ見に行きたい」という答えが返ってきた。そんなわけで、梅雨のさなか6月24日日曜の朝、松下くんの田圃の最寄り駅、六合駅で待ち合わせすることになった。
「昼過ぎには雨・・・」という予報だったので、午前中が勝負だと判断し、当初予定していた自転車自走を急遽取り止め、小径車による輪行に変更、六合駅まで東海道線普通列車で西に向かった。待ち合わせ時間よりもだいぶん早く到着しそうだったので手前の藤枝駅で下車し、自転車散策しながら六合駅を目指した。
いつも車窓から見ている風景の中をつぶさに見てまわると意外な発見があった。小高い山の中腹に神社を見つけたのだ。見ようによっては古墳にも見えるようなその小高い山は、昨年東北出張の折、山形県の高畠町周辺で見た古墳群にも似た姿であった。その神社で今日の無事を祈願して六合駅へ向かった。
9時ちょうど六合駅の駅前ロータリーを真紅の自転車が通り過ぎて行った。「おッ!格好いいバイクだな・・・」と思ったら、それがSさんだった。じつはSさんはビギナーのサイクリストで今日は最近買ったばかりという自転車で、颯爽と現れたのだった。
「今日は天気が怪しいから残念だけど寄り道なしにしましょう・・・」
天気さえ良ければ、お昼頃まで界隈を自転車散歩しながら志太平野を満喫してもらおうと思ったのだが、お天気はとても昼まで持ちそうにない。直行で松下くんの田圃へ二人で走った。
「ほら居るでしょ!これが豊年エビ!」
「え?どこ?」
「これですよこれ!目の前にいるこの緑色でヒラヒラしているヤツ・・・」
Sさんにはこの宇宙的な動きをする生命が、最初視界に入らないようだった。
「えッ!何コレ?すごーい!」
数秒後にはこんな言葉を発してした。誰もがこの存在を知り、その姿を目にすると一様にこんな言葉を発する。Sさんもまた例外ではなかった。
この豊年エビが、この数週間だけ出現して消えること。もともとカブトエビ同様砂漠の生き物であったこと。松下くんの田圃が有機農法なると同時に出現するようになったこと。その原因は田圃の中の微生物層が豊かになり、その微生物によって土中の有機物がいっきに分解され、そのことによって多様な生命が発生しているということ。その中の象徴が豊年エビであること。そんな因果関係についてSさんにざっと説明をした。
「この泥みたいに見えるものも良く見てごらんよ・・・」
Sさんが豊年エビといっしょにすくい上げた泥に目を凝らすと、その泥と思われる中の多くの存在は動いていた。
「ぜーんぶ生命なんですよ。」
「要するに、この田圃ぜーんぶ命のスープなんですよ。」
Sさんはしばし無言のまま、すくい上げた手の中にある小さな宇宙に見入っていた。
日頃通訳の仕事をこなすほどのボキャブラリー豊富なSさんをもってしても、しばらくそれらを形容する言葉が見つからないようであった。
案の定、梅雨空からは予報よりも早く雨が降り始めた。今にも干上がりそうだった田圃の中の小さな水溜りに雨粒が落ちていくのが今日はとても嬉しかった。しかし雨の帰り道のことを考えるとその雨粒を降らす梅雨空が恨めしかった。