昨年、月に一度、行ける時だけボランティアでご飯を炊きに通った。
子どもの貧困に取り組む団体が運営する小さなスペース、
ささやかながらお手伝いに行ったのだった。
ボランティアとはいえ、特別に何かをするのではなく、
できる人ができることを少しだけするという具合なので、
僕は土鍋を持参し、その場で飯を炊き、一緒に飯を喰った。
誘ってくれた友人は「むしろそれがいいんだよ・・・」というので気楽に参加していた。
スペースには高校生3年生のYも来ていて、行けばいつも食卓を共にした。
Yはいつからか、こちらから誘うともなしに、ご飯炊きを手伝うようになっていった。
何度目かに「もう全部自分でやってみなよ」と言うと、
最初は自信なさげのようだったが、やってみることになった。
炊き上がったそのご飯は、ちょっとおコゲのある美味しいご飯で周囲を驚かせたのだった。
以前、子どもの貧困問題をテーマにしていたドキュメンタリーを見ていて
当事者へのインタビューのこんな声に考えさせられたことがあった。
「お米はあるけど電気が止まってるからご飯が炊けない・・・」
現代の生活においてガスや電気が必須であることは言うまでもないが、
問題なのは「炊飯器でないとご飯が炊けない」と思ってることのように僕には感じたのだった。
「周辺で柴刈して飯盒炊爨でもすれば?」と言ってるわけではない。
つまり空腹にも関わらず、目の前にあるお米をどうすることもできないでいる状況になぜ陥ったのか?
問題の背景にはこういった知識や経験といった多くの人が意識することはなしに
身につくようなことの不足もあるのでないかと思ったのだ。
Yは自らの経験からか福祉を勉強することを希望し専門の大学への進学希望した。
そこで合格したら炊飯土鍋をお祝いにあげる約束をした。
そしてこの2月、Yは見事にその目的を達した。
4月からは一人暮らしがはじまる。この炊飯土鍋が少しは役に立ってくれるだろうか?
いや、むしろ道具はどうでもいい。
Yはどこへ行こうが、米と水と燃料となる燃やすものさえあれば、喰う術を身につけただから。