ここのところ港町焼津で新しく店を構える料理人に頼まれ、開店に向け飯炊きのあれこれの手伝いに夜な夜な通っている。そのついでと言ってはなんだが、少し早く出て藤枝松下圃場へ寄ってみることにした。
行ってみると、ちょうど播種(種まき)作業の真っ只中であった。作業場の中央に見慣れぬマシン。新しくしたという種まき機が鎮座していた。これまで長年使ってきたマシンは、はるか以前に製造を終了し、故障した部品を交換しようにも、すでに供給もないために、ついに新調したとのことだ。ところがこの新しいマシン、毎年松下が自作する苗床用培養土との相性がイマイチで、思うように働いてくれない。そこで細かな調整をしながら、マシンのストライクゾーンを探りながら作業をしているとのこと。横で見ている最中も「あァ~またか~しょんねんな~」なんて溢しながら格闘している。とはいえ表情はそれほどイラついた様子はなく「まあ、新しい道具ってのはこんなもんだよ・・・」なんてどこか楽しげでもある。
作業場にはもうひとつ、これまでとは違う「新しい」があった。それは内弟子の存在である。これまでも松下を慕って弟子のようにしてやって来る若手生産家は何人かいたが、その誰もがすでに稲作をしている者たちばかりだった。しかし今ここにいる二十代前半の青年は、稲米飯の何もかもが未経験で松下と僕の会話でさえ、すべて呪文に聞こえているという。そんな彼は、進学までしこれまで学んできた進路を途中で辞め、どうしても稲作がやりたくて松下の門を叩いたそうだ。
これまでほとんどの仕事をほぼ一人でこなしてきた松下にとって、弟子とはいえ身近にもうひとつの身体を得たことは、どんなに力強く感じられることだろう。今年還暦の松下にとって、一人の気楽さよりも技や発想を言葉や文字でなく作業をしながら伝わっていくことのダイナミックさは、ちょっとだけ身体が楽になること以上に、楽しいに違いない。いうこと効かない新しいマシンにイラついても、どこか楽しげに見えたのは、こういう理由だと分析してみた。
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