場末の米屋がいつしかライフワークになったスイハニング(炊飯)のルーツへの探求。
今現在見知った中で空想した仮説を夜な夜な書いてみました。
スイハニングのルーツを探る旅 3 の続き
一万年以上かけ豊かな自然の中で狩猟採集+ちょっぴり栽培で暮らしてたご先祖さんたちが、
農耕ライフに変えたくなっちゃった理由とは何か?
その理由にはやはり「米を喰う」中にあるはずなのだが、その動機ってなんだろうか?
前回書いたように、木の実に比べれば
アクもなく少ない燃料であっという間に消化吸収できるデンプンに調理できる米は
縄文人にとっては、じつにやさしい食材に感じたはずだ。
そもそも渡来人が運んできた稲の種類はごく限られた種類だったらしい。
命がけで海を渡り新天地を目指す人の立場で考えるなら、どんな環境にも耐え、病気に強く、収量が安定し、
しかも食味も良い、選りすぐりの種籾を携え海を渡ったはずだ。
そんな選ばれた種籾と洗練された栽培技術で収穫された米が食材として悪いはずがない。
その米が、一万年以上かけて様々な植物種子(木の実)を調理し、高度に成熟した加熱調理技術と出会った。
大陸に比べて豊富で質の高い水のあるニッポン列島で調理された米は、
ご先祖さんたちはもちろん、渡来人にとっても祖国のそれよりも美味しかったかもしれない。
ただひとつ考えどころなのが出会ったばかりのご先祖さんたちにとっての米は、
喰って旨くとも、その飯にありつけるためにかけるエネルギーと、
これまでどおりの食生活にかけるエネルギーとを比べた時、
やすやすと前者(稲作農耕ライフ)へシフトしたとはやはり考えにくい。
安定した里山暮らしではなく、変化の激しい平場暮らしへライフスタイルを変えていく動機付けとは何だろうか?
ここは多くの人で空想してほしいポイントなんだけど、私はこんな空想をしている。
それは山の実りが悪い年に奥山に住む動物が食糧を求めて町場にやって来ることが時々あるが、
もしかしたら、これと同じようなことがご先祖さんたち身にも、起こったのではないだろうか?
その原因は知る由もないが、何かの理由で長年に渡り食糧調達が困難になったことをきっかけに
やむをえず平場の農耕ライフへシフトしていった・・・そんな空想をめぐらせているのだ。
つづく
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画像上:フレンチレストランでカミアカリスイハニング(2013)1700℃の炎の火加減をしながら、木が燃える800℃の炎と金属羽釜の意味に気づく。
画像下:オニグルミの殻の出土品。三内丸山遺跡、縄文時代前期