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浸す。浸さぬ。
 
 
9月についで2回目の弥生時代の登呂ムラへ。
来年、登呂で行う予定のワークショップのための準備作業。
今回は登呂の田圃の土でつくった台付き甕型土器での煮炊き実証実験。
 
用意したのは分づき米。品種は、にこまる。搗き加減は分づき米。
白米に近い状態から玄米に近い状態の米までが混在した状態のもので、
臼と杵で人力で搗いたコンディションを精米機で再現してみた。
それを下準備の異なる2つに分け、それぞれのアルファ化(米デンプンの糊化:たべられる状態になること)に
トライしてみた。
 
 
分づき米A・・・水に浸しておいたもの(完全浸漬状態)
分づき米B・・・水に浸さないもの(生米状態)
 
なぜ、浸した米と浸さない米(生米)を用意したか?
 
 
以前から、ひとつ疑問があった。
なぜ、米を水に浸すという技術が生まれたのか?
現代人が米を炊く時に必須条件のこの下準備の理由が知りたかった。
弥生時代には他の地域では甑(こしき)を用いてこともわかっているので、
水に浸すという技術はすでに弥生時代にはありました。
であるなら、登呂ムラの住人もこの技術を用いていたかもしれない。
だから、この場所でその意味を知りたかったわけです。
 
僕の仮説はこんなものだった・・・。
浸漬してない米→米デンプンのアルファ化に時間が掛かる→燃料の大量消費→無駄。
浸漬した米→米デンプンのアルファ化が早い→省燃料→経済的
 
きっと、浸漬してない米はたくさんの燃料(薪)使うだろうと想像したわけです。
そこで、それぞれがどれくらいの燃料が必要だったかを調べるために
米がアルファ化するために消費した薪の量を測ってみることにした。
 
結果は想像とは異なるものでした。
土器の形状が異なるので完全なイコールコンディションではなかったものの、
使った薪の量はほとんど違いがなかったのです。
食べてみると、どちらも食感こそ違え米デンプンはちゃんとアルファ化していました。
あえて表現するならこんな感じ。
 
分づき米A・・・硬めの粥(カタカユ)
分づき米B・・・柔らかい粥(ユルカユ)
 
食べながら、経済性云々よりも、大事なのはその食感そのものではないかと気づきました。
どっちが好き?美味しい?との会話をしていて、
ほとんどの人が「分づき米B・・・柔らかい粥(ユルカユ)」を選んだからです。
厳密にいうと食感のスムースさは、分づき米Bが圧倒的にいい。
分づき米Aは、わずかに舌にザラつく感じが残っていた。
皆はその微妙な差異を感じとったのだと思うのです。
 
これはあくまでも想像ですが・・・
水に浸すという技術は、たんに美味しいものを求めていく過程で気づいた「技術」ではないかと思い始めています。
 
人口70人
一人あたり年間30キロの余剰米。
争いのない平和な村。
充分に喰っていけてるライフスタイル。
であるなら、美味しいものをより美味しくすることに興味が湧くのは、
人間としてごく自然なことだと思うわけです。
 
さて、現代の皆さん、どう空想しますか?
 
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2012年12月02日 [ 5343hit ]
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