カクモウツクシイ。
クルマのボンネットの上で見つけた。
全部で幾つだろうか?
運悪くアスファルトに落下し踏むつぶされているものをあった。
彼らに意思はあるのか?
次世代へ託す膨大な情報を持ったこの小さなカプセルに意思はあるのか?
遠くへ旅立つことがてきた個体の末裔たち。
彼らに生きるための執着はあったのだろうか?
— いや〜べつにそんな・・・ただまあ先代からこんな風でして・・・。
ただそれだけのことかもしれない。
この個体そのものには明確な意思はないのかもしれない。
あるとすれば、止まらない時計のごとき過去から未来への連続する途方もないチカラ。
生命とはそのチカラのたんなる受け皿に過ぎないのかしれない。
それにしても美しい。
チカラとは受け皿を選ぶのか。
選ばれし受け皿のかくも美しいことか。
彼らにも悩み、あるいは喜びはあるのか?
運悪く踏みつぶされたあいつは恨めしく思うのか?
自己の主体性たる己とはあるのか?
例えばそれがあることに気づいたとして、その己はじつに薄っぺらなものだと気づくに違いない。
しかしだ。
その気づきこそ、チカラの受け皿たる主体ではないのか?
薄っぺらな己が思い悩み喜ぶ。
日を仰ぎ、雲の流れるを知り、月が満ち欠けを受け入れる。
そういう途方もない時間の流れの一瞬を固着化できる意識を持つことこそ、選ばれし受け皿というものだと思いたい。
なぜなら
セカイハ、カクモウツクシイ
のだから。
—
まだまだ加筆するだろうな。この文章。
( 米屋のいい訳 )
2011年11月27日 [ 3443hit ]