写真のそいつ。
つい最近30年前に撮った写真を整理しながら眺めたことがあった。
そのどれもが当時の仲間たちのポートレートだった。
バンドをやってる者、バイトでビラ配りをしている者、絵を描いている者・・・。
そんな彼らの日常のひとコマが写っていた。
今日、その写真の中の仲間の一人に偶然出会った。
名前を呼ばれた瞬間に30年の時間を越え18歳の自分に戻った。
そしてそいつとハグをし、共に再会を喜んだ。
同じ街に住み生活をしているのだから
これまでいくらでも接点はあったろうになぜか会わなかったのか?
それを不思議に思う。
最近こんな風に思うことがある。
こういう再会や出会いの機会とは、案外常時起こっていて単に自分が気づいていないだけじゃないかと。
つまり電波は常にそこらしゅうに飛んでいるのに、
その電波を受ける側の自分がなんらかの理由で受信できてないだけじゃないかと。
その何らかの理由の正体は何だろうか?胸に手を当てて少し考えてみる。
それはじつにつまらないモノのように思われる。
しかしその一方で、その正体であるつまらないモノが、
自分をこれまで作ってきたモノであることも大切にしたいとも思う。
だから今日のように再会や出会いがやって来るということを、
自分がその電波を受信できる準備ができたと捉えてみようと思っている。
ところで写真とは撮っておくものだとつくづく思うな。
30年ぶりに会ったそいつの面を見たらそう思った。
そしてまた撮らせてもらおうと思っている。
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( 米屋のいい訳 )
2011年01月30日 [ 3398hit ]