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記憶の地平【13】

 

人前でお話しをする機会が、今月と来月そして年明けにある。お話しする内容はカミアカリをはじめ、これまでアンコメや僕自身が考えてきたアイデアやプラン、そして実際にやってきた活動のことなど。今それらを毎晩整理している最中なのだけど、整理していたら、その話しの源泉は過去の記憶にあることに気づいた。そこで、その整理がてら、このコンテンツで少し書いていこうと思う。ご迷惑かな?まあちょっとお付き合いくださいな。

 

記憶の地平【13】松下明弘、その現場。

 

僕にとってのこれまでは、この人のこと、この人の米を理解するための準備だったのではないかと思っています。

 

名前は松下明弘。
彼は僕と同じ昭和38年生まれ。
ニッポンが高度成長期の頃です。それはまた二千年以上続いているニッポン稲作の歴史においてもターニングポイントの頃でした。
米不足の時代から、初めて米余りの時代へ移行するその瞬間だったのです。
その時に我々は生まれたのです。

 

初めて会ったのは1997年9月。静岡駅前の居酒屋、今でも忘れられません。地元新聞社のHさんの紹介でした。
最初の印象は、ただただ圧倒されただけでした。
僕が話す間もなく、彼は大出力でした。まあ今も相変わらずですがね。
すでに彼は静岡県内では有機栽培米生産家として名が知られており、その正体にとても興味がありました。

その後、彼は秋になると自らが手掛けたお米を試食してほしいとやって来ては、長話ししました。
正直云って、酷い米でした。品種はコシヒカリ。
知名度と品物に大きなギャップがありました。
だから、当時アンコメで扱うなど、到底考えられないことだったわけです。

 

出会ってから4年目の春、彼から電話は入りました。
「今年秋収穫する米を買ってくれないか?」
「いいよ」瞬間的かつ感覚的に判断しました。
その代わり、ひとつ条件を出しました。
「僕に、有機農業。それから稲作が何なのかを教えてほしい。」と伝えました。
彼は快くそれを了承してくれました。

 

早速、その週の週末に彼の田圃へ行きました。
まだ田植え前で、田には水もなく、地肌が見えて殺風景でした。
そして、その光景に驚いたのです。
およそ有機農業という言葉のイメージとは真逆の風景がそこにあったからです。
それは今も変わるどころか、さらにアップデートしています。
具体的に言葉にしてみましょうか。

 

田圃は住宅や工場に取り囲まれています。
見晴らしのいい田圃は、ほとんどあまりありません。
用水路は素人目には綺麗に見えません。(今は愛おしく見えてます)
新幹線が数分おきに爆音と共に走り、かつての神社の参道を分断しています。
その向こう側には東名高速道路が24時間休みなく走っています。
発電所から大量の電気が運ばれる高圧電線が視界の中にあります。
ある田圃ではパチンコ屋のイルミネーションや水銀灯に深夜まで照らされています。
生産家の彼は、有機農業者のシンボル、作務衣と髭姿ではなく、安タバコをふかしていました。(数年前にようやくタバコはやめました)

 

僕はその有様を見て廻り、ほどなくしてから、強烈に面白いと思いました。
ここに多くの人が「有機」という言葉から抱くであろうイメージ、記号的なものがあないこと。

それどころか、期待されるであろうほとんどのことを、すべて裏切っていたからです。
同時に痛快だとも思いました。

それからすぐアイデアが浮かびました。
これを真正面に理解するには、これまで考えてきた、モノの捉え方の手法が役に立つと思ったわけです。
同時にこれをきちんと説明する義務が僕の中に芽生えた瞬間でもあり、
もしかしたら、僕でないとこれを説明することができないかもしれないとも思いました。
しかしまあ、当時の僕は、稲のこと、米のこと、ご飯のこと、すべてがあまりにも無知でした。
そんなわけで、週末になると田圃通いが始まったというわけです。
今それは月一程度にはなりましたが、続いています。

僕はこの日以来、「田圃からお茶碗まで」を、はっきりと意識しはじめたのです。

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ジーグまで書けるか?
Bach cello suite No.6 Prelude

2010年10月21日 [ 3734hit ]
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