場末の米屋がいつしかライフワークになったスイハニング(炊飯)のルーツへの探求。
今現在見知った中で空想した仮説を夜な夜な書いてみました。
スイハニングのルーツを探る旅 4 の続き
何かの理由で長年に渡り食糧調達が困難になったことをきっかけに
やむをえず平場(平野部)の農耕ライフへシフトしていった・・・。
あくまでも私の空想ではあるものの、
このブログを読んでくれた友人がこんなコメントを私のSNSへ寄せてくれた。
「人口は、縄文ピークで26万人、それが後期で10万人という試算がでています。寒冷化のほかに、大陸からの病気説もあるそうです。弥生は60万人、ピークは100万人と大増加、やはり水田稲作がヒットしたことは間違いないですよね!」
いづれにせよネイティブニッポン列島人(縄文人)ライフを継続する人は減り、
多くは、大陸から来た渡来人たちと少しづつにせよ血を交えながら農耕を中心としたライフスタイルへと変化していったに違いない。
高度な水田稲作技術を持った渡来人と高度な煮炊き技術を醸成してきた縄文人、
両者の血を引き、両者の技術を継承していった人々、この混血の人々をニッポン人と呼ぶとすれば、
その人たちがスイハニング(炊飯)の礎を作っていったと考えていいだろう。
しかしそのニッポン人がいきなり「炊飯」を完成させたわけではない。
登呂遺跡でのアートロ(登呂会議)の活動を通じて
出土した土器(台付甕型土器)のレプリカで煮炊き実験を試行錯誤しながら考えてみると
登呂のあった弥生時代から約1500年の時間を待たなくてはならない。
つづく
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画像上:有機米生産者、松下さんの作業場で度々行われる講座で彼の米をスイハニング(2013)土鍋は1700℃のガスの炎に出会ってはじめてその秘めた力が覚醒されたと思う。
画像下:千葉県佐倉市の歴博(国立歴史民俗博物館)は数日かけてじっくり見たい。第一展示室のスタートはこれら縄文土器が迎えてくれる。