執筆者プロフィール 白鳥和也 1960年静岡県生まれ。小説家・エッセイスト・自転車文学研究室主宰。最近、念願の小説本『丘の上の小さな街で 白鳥和也自転車小説集』(えい出版社・えい文庫)を上梓。そのほか著書は『自転車依存症』『素晴らしき自転車の旅』(以上平凡社)』など。自転車の旅と書物と米のご飯をこよなく愛する中年男。 自転車文学研究室ブログ |
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其の九 握りめしのかたち
弁当と並び、米飯野外食あるいは米飯携帯食の双璧を成すものは、言わずと知れた握りめしであろう。ああ、握りめし。恋しい握りめし。わたしゃ、握りめしが大好きだ。これほどよくできた持ち出し用ごはんの形態はほかにはない。
ま、あまり乱暴に扱うと形がつぶれてしまったりすることもあるものの、基本的に握りめしというものは持って出歩くことが楽である。ていねいに扱う御仁は竹の篭などに入れたりするのかもしれぬが、普通はまあ竹皮やラップで包み、あとは布きれなどでまとめてくるむだけで持ち出せる。食べ終われば弁当ガラもほとんど残らない。
だからちょっと軽く出かける自転車の遠足なんかでは、まことに都合がいい。食べると荷物の容積も減る、というのは精神衛生上も気持ちがいいのだ。これは、外で麺類を食べるのに、コッヘルさえあるのなら、むしろカップラーメンより普通の袋入りインスタントラーメンの方が、食べ終わった後にいらぬ容器が残らず都合がいいのと同じである。
しかしそういう利便性うんぬんよりも、やっぱり握りめしというのはその存在感によって語られるべきものという感じがする。どこが普通の米飯と違うかというと、立居振る舞いが違う、という感じなのである。
茶碗の御飯も、弁当の御飯も、根本的には、受け皿ないし容器に納まっている。御飯自身の形態は、おおむねほかから規定されているのである。その意味では受動的であって、それ自体のなかに形態への志向がほとんどない。
ところが、握りめしの場合は事情が少々異なる。握りめしもまた、その形状は文字通り「握られる」ことからできあがっているのだから、形は自律的というよりは他律的である。けれど、いったん「握られて」しまえば、あとはそれ自体で形状を保っているのだ。
茶碗の御飯や弁当の御飯というものは、言ってみれば、重力に従った形態ともいえる。てんこ盛にして富士山状にしようなどという行為は、重力に抗おうとする行為の表れでもあるが、大局的にはやっぱり器に収まっている以上、受容的な存在であろう。
握りめしのあっぱれなところは、自分で立つことである。多くの人がそうだと思うが、握りめしの普遍的なイメージというのは、竹皮の上なんぞに、二つか三つの握り飯が片寄せあってちょこなんと自立しているところではなかろうか。そして傍らには、おしんこが少し並んでいるのだ。
愛好者が乗るスポーツサイクルは、ふつうスタンドというものがついていない。スタンドは重量も増すし、取り付けるときフレームを傷付けることが多い。だから、愛されている自転車というものは、人間の介在がないと、まっすぐ立つこともできないのだ。
そういうところが、握りめしと自転車は似ている。人間とふれ合うことで、それらは初めて十全な存在となる。
もうだいぶ以前だけど、その人の手のかたちによって、できあがる握りめしのかたちが自ずと異なってくるということを人から聞いた。三角形のものも、丸っこいものも、どれが良い悪いということではなくて、それがその人の手ということであろう。
ものの本によれば、人間の身体のなかでいちばん人間的な部分は、手だそうである。人間が手を使って道具を作り出すことで文明が進歩してきたとは、よく言われる言い方であるけれど、それとまた少し違う意味があるらしい。
われわれは、痛い思いをしたときには、思わず手でそこを覆う。愛情の身体的表現も、ひとつは間違いなく手で行われる。手の内側にある相には、その人の個性が刻印されているといわれる。イコンや仏像に於いて、手が表現するものもとても大きい。
レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な素描のなかには、暗部を背景に、人間の手を組み合わせたかたちをいくつも示しているものがある。
『風の谷のナウシカ』の最も印象的なショットのひとつは、ナウシカの回想シーンだった。幼いナウシカが王蟲の幼虫を隠し持っていることを知った大人たちが、それを取上げようと手を伸ばす。その手が蟲のようでもある。
『フランス詩の散歩道』という本の一節で、著者の安藤元雄氏は、ポール・エリュアールの詩を引用し、「《 Elle a la forme de mes mains 》というすばらしい一行がここにあります。」と書いている。その訳は、「彼女は僕の手の形をし」である。
コンビニでも握りめしは買える。機械でもいちおう握りめしの形状は作れる。そういう時代だから、家族や大切な人に作ってもらった握りめしはとりわけうれしいのだ。近頃は注文を受けてから握ってくれる食堂はかなり減ったけれど、これもやっぱりうれしい。
わけても静岡では、握りめしとおでんが共存している店が多いことが泣かせるのである。梅とおかかね、と頼んでおいて、皿に黒はんぺんやこんにゃくや卵などを並べる楽しさといったらない。握りめしの昼飯のおかずに、おでんを選ぶというのは静岡独特の食文化といえそうである。
いずれにしても、握りめしというのは、幼年時代の思い出に通じるような原型的な食のイメージがあって、ほどよく酔っ払った挙句、中年の男どもが焼きおにぎりを食べて店を出てくるというのも、なんだか、どこかいじらしくて、可愛げがある。そう思いませんか。
( 【飯稲記】白鳥和也さん )