執筆者プロフィール 白鳥和也 1960年静岡県生まれ。小説家・エッセイスト・自転車文学研究室主宰。最近、念願の小説本『丘の上の小さな街で 白鳥和也自転車小説集』(えい出版社・えい文庫)を上梓。そのほか著書は『自転車依存症』『素晴らしき自転車の旅』(以上平凡社)』など。自転車の旅と書物と米のご飯をこよなく愛する中年男。 自転車文学研究室ブログ |
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其の三 東頚城にて
新潟県に東頸城(ひがしくびき)丘陵と呼ばれる一帯がある。この冬、記録的な大雪で何度かその地名が伝えられた、津南というところの北東側から西側の丘陵地帯だ。信濃川中流域の日本海側にあたる。東頸城は、ベテランの自転車乗り、シクロツーリストにはつとに知られたエリアであり、二年ほどまえの六月の初旬に、私も初めて自転車で訪ねた。
こういう場所ほど、シクロツーリストのいささか浮世離れした傾向を如実に語るところはないだろう。なにしろ、坂ばかりなのだ。つまり、山ばかりなのだ。そういうエリアをわざわざ選ぶようにして出かけてゆく人種が、われわれなのである。
信濃川に沿うJR飯山線は、新潟県の最も南にある市町を結んでいる。さきほどの津南町のしばらく先には、十日町市がある。そして、信濃川と飯山線の東から南にかけては、やはり名の通った丘陵地帯がある。魚沼丘陵である。
三年前、二〇〇三年の夏の終わり、私は静岡から自転車で走り続けて、四日目の昼に新潟県に達した。ロングライドが流行りの昨今、こういう旅程は自転車でもスローな部類の旅に入る。三日目の夕刻に野沢温泉に辿り着き、翌日の昼に津南の町に入った。そして十日町市で縁のあるところに寄り、その午後はゆっくりと過ごした。
翌朝の早朝は雨が残っていた。十日町の駅のそばのホテルの部屋からは、信濃川沿いに開けた平地の向こうに、雨雲の垂れ込めた東頸城の山並みが見えた。私はそのとき、東頸城を走って直江津の方向に至るべきか、なおも北東の方角に走り続けて翌日くらいには福島県内に入るか、相当迷ったが、結局、福島へと進む選択をした。だからその旅では東頸城には行かなかった。
東頸城を自転車で走る機会はその翌年にやってきた。首都圏の、あるベテランサイクリストのグループがその辺りを走るというので、途中参加で混ぜてもらったのである。私は静岡から車に自転車を積んで運転して行き、十日町市の駅のそばに駐車して荷台で寝袋にくるまり、翌朝、輪行袋を抱えて北越急行線に乗った。
私はそのとき、二冊目の本が出版されたばかりだった。全国で販売される本としては、自分にとって初めての本だった。
北越急行線のある駅に降り立った私は、自転車を組み立て、グループが宿泊している宿まで半時間ばかりペダルを踏んだ。そこまでもが坂だらけだった。平らなところは川沿いをのぞいて、ほとんどない。ほどなく気温が上がってきて、にわかに辺りは夏の気配だ。
田麦というところで、私はグループに合流させてもらった。小さな集落の中に一行が泊まった藁葺き屋根の民家があった。そこからわれわれは出発し、ところによっては普通自動車のすれ違いもままならぬような丘陵の道を走り始めた。道はある場所では尾根を辿り、別の場所では谷を行き、また別のところでは緩やかな坂や厳しい坂を上り下りするのだった。
しばらく進むと、尾根近くを進む道の傍ら、道よりも少し離れたところに、農家の人が立っているのが目に入った。そこは、それこそ数アール程度の水田や耕地が、斜面に面して開けているところだった。田んぼの水面には、小さな緑が点在し、緩やかな畦の曲線がそれらを縁取っていた。田植えが終わったばかりなのだ。
比較的ゆるやかな丘陵のなかに集落が点在し、その周りに田んぼが広がっているというのが東頸城の景観の基本的なモードだった。集落はある場所では十軒にも満たないようなことがあるようだった。水田もほとんどは傾斜地に開かれているために、不定形なものが多く、独特の揺らぎのある景観を形成している。民家には藁葺きのものもあり、母屋の横には立派な杉の木が立っていたりする。
そしてまたなんと道の美しいことだったろう。定規で引いたような真っ直ぐな道は、国道などの幹線道を除けば、ほとんどこの丘陵に存在していないのだった。われわれは、やわらかな曲線に満ち満ちた道の傍らで何度か立ち止まったり、この先どう進むか相談したりした。さすがにベテランのグループらしく、皆、健脚であり、なかでもリーダー格の人は、毎年のように東頚城を訪れているようで、非常に多くの経路を知悉しているのだった。
いくつか小さな峠を上り下りしたところで、グループの一人であるDさんと私は、さらに高原へと足を伸ばす猛者たちから離脱して、十日町方面へのんびりと東進することにした。松代(まつだい)の郷土資料館に立ち寄り、駅周辺を流した。
松代からはDさんの地図読みで、一段細い道を使って山間部へ入った。冬季は四輪駆動車でも苦労しそうな道を上ってゆく。すると、こんな奥に集落があるのかと思うようなところにも、まだ人家があり、稲づくりの営みがある。そこからさらにしばらく進んだ尾根道で私は息を呑んだ。
南の方角に、丘陵のかなりの範囲を見通せるところに、出た。雨雲のかかった灰色の天井の下で、大地は巨大な波のようにうねっていた。緑なす津波だ。大地がそのような力を彫塑し、そのなかの小さな土地を人々が生きている。地質学的時間の尺度では、それはまさに波のように動いているのかもしれない。
そこから少し先で、私たちは、かつて田んぼであったであろう斜面の耕地が、背を伸ばし始めた夏草に覆われているところを通りかかった。その谷の田んぼは、ほぼすべてそのようになっていた。もはや稲が植えられることはないように見えた。
東頸城の谷の、ガードレールさえない狭い道は、冬季は通行止めになるのだろう。もちろんきちんとした道もあるが、それでも山中に点在した東頸城の集落。新しい世代は街へと出て行き、あとに残った人々が老いてもはや田に立てなくなったとき、そこでの稲作は終わるのだ。
その年の十月、長野県内のあるコンビニに車を停めて休憩していた私は、車ごと揺さぶられた。中越地震だった。十日町市でかつてお世話になった知り合いの農家は、裏山が危険な状態になり、ずいぶんと大変であったらしい。東頸城では比較的被害が少なかったと聞いたが、それでも影響がなかったはずがない。そしてこの冬の豪雪だ。
詳しい人によると、新潟県南部のような比較的若い地質こそ、稲作に向いた土壌なのだそうである。だが、ここでの稲作の歴史は年老いている。東頸城を毎年のように訪れているベテランのサイクリストによれば、訪れるたびに、耕し手のいなくなった田んぼが増えてゆくと言う。
行けば誰でもわかるが、越後の山里の人たちは、道ひとつ聞いてもひどく親切である。親切なことがあたりまえなのである。なぜか。二階の高さまで雪が積もるような山村で、その集落という共同体が存続してゆくのには、たがいに助け合って生きてゆくほかなかったからなのである。美徳というのは、道徳の授業の生産物ではなく、神の小さな土地のような、与えられた環境の子供なのであろう。そこでは、価値が逆転する。生きるのに労苦が多い土地に、人生を本当に祝福するものが満ちていたりする。
しかしまた、そうやって何世紀も続いてきた里が失われてゆく。それはどうすることもできないことなのかもしれない。しかし私たちにも、それを見、それを知る務めがあるのではないか。今年の東頸城や魚沼は、おそらく田植えの頃まで雪を残すことだろう。そこに暮らす人々にとって、この春ほど待ち遠しかったものはないはずだ。
( 【飯稲記】白鳥和也さん )