執筆者プロフィール 白鳥和也 1960年静岡県生まれ。小説家・エッセイスト・自転車文学研究室主宰。最近、念願の小説本『丘の上の小さな街で 白鳥和也自転車小説集』(えい出版社・えい文庫)を上梓。そのほか著書は『自転車依存症』『素晴らしき自転車の旅』(以上平凡社)』など。自転車の旅と書物と米のご飯をこよなく愛する中年男。 自転車文学研究室ブログ |
目次 |
其の二 消えた空間
私もその一人であるわけなのだが、現在40歳以上くらいの人なら、おそらく多数が共有しているんじゃないかと思われる空間イメージがある。その空間は、四半世紀くらい以前なら日本のどこにでもあったし、いまだってすっかりなくなってしまったというわけではない。ただしだいぶ減った。われわれが生きてきた数十年足らずの時間経過のなかでも、かなり減った。
減った空間のひとつは、田んぼだ。ほんの30年くらいまえまでは、静岡、清水のどっちにも、相当な広さの水田というものがあった。そういう水田に、道路が敷かれ、住宅地ができ、郊外という世界が生まれた。「あの頃は富士山がよく見えたっけねえ。春んなりゃあ、れんげがいっぱい咲いてね」という具合に、田んぼのなかにまばらに建てられていた家々は、そのうち数をどんどん増し、遠くの視界をすっかりふさぎ、かたわらの水田はいつのまにかすべて埋め立てられていった。
サイクリング用の自転車に乗り始めたのは高校二年生のときだ。それまでも多少の遠出はしていたけれど、ドロップハンドル、10段変速、軽合金リムのそれなりに本格的な自転車を買ってもらって、行動半径は格段に広がった。最初の遠乗りは、遠州だった。どこかで見たポスターで、「鹿島の花火」すなわち、天竜二俣で行われる花火大会を見に行きたくなったのだ。
その途中で、炎天下の県道を掛川から天竜二俣まで走る途中で、当時国鉄二俣線だった線路沿いに、果てがないくらいに広がる水田の緑を見た。森の駅でひと休みし、遠江一宮の駅を探しながら進んでいる途中だった。海だな、と思った。田んぼの海だ。
私の育った環境のすぐそばには、広々とした田んぼも、自分が駆りだされて笛や太鼓の練習をさせられるような祭りも、なかった。だからそういうものが理解できなかったというよりは、だからこそそういうものに遠い憧れを感じてきたのだった。自転車で遠出することの動機のどこかに、そんな思いが潜んでいたのだろう。それが30年もたってから、ようやく意識される。歳をとるなんて、そんなことなのかもしれない。
あれだけたくさんあった田んぼが、これだけ目減りして、しかも、この先減少に転ずるとはいえ、昔に比べれば人口はずっと増えた。で、よくこの国の台所が持つのはなぜなんだろうね、とアンコメさんに訊いたら、それこそが単位面積あたりの収量を増大させることにひたすら努力を傾注してきた、平均的な稲作農業の成果なんだよ、という意味のことを教えてもらった。むべなるかな。
消えた空間が、もうひとつある。学校へ上がる前の自分が遊んでいた場所は、すぐ近所にあった広場だった。私有地のようだったが、時期になると盆踊りの練習なんぞもやっていた。子供らが遊ぶ分にはおとがめなしで、そういう、ややアナーキーな性格の空地、広場、というようなものが至るところにあった。とりあえず土管を積んであるとかいうのが典型的なもので、学校が引けて家に帰ると、近所の駄菓子屋に寄りながら、まずだいたいその広場に行くのだ。そこには遊び相手になりそうな誰かがいるからだ。
そういう広場や空地は、やがて消え、危なげな土管や廃材、濁った水たまりの代わりに、小ぎれいな遊具や水道やトイレまである公園に変わった。郊外の子供たちは、そういう場所で遊ぶほかなくなった。やがてその公園からも、子供たちの姿は消える。
広々とした水田があり、その傍らに鎮守の森があるような世界で少年時代を送った人々は、やはり神社のお社の周りで隠れんぼなどしながら、照葉樹の落葉を踏みしめながら育ち、その記憶を持ち続けることができるのかもしれない。そして成人したら、そういうのが窮屈でいやでたまらないから俺はよそへ行く、ということを選んだ人を除き、今度は自分の子供たちに祭りの作法を少しずつ教え、彼らの何人かは、それを受け継いでゆくのであろう。
昔の日本には、そういう人たちがとても大勢いたに違いない。お米をつくる場所、豊作を願い、豊作に感謝すべき場所、お米を食べる場所、それらがみな近かった。作っているものがお米でないにせよ、根本は変わらないだろう。神仏もそこにいた。信仰がどうのこうの、ということの前に、神社やお寺は広場のようなものだったし、先祖の墓はすぐそばにあったのだ。
高校生の私は、まだ往時の日本をよく残していた森町や天竜二俣を自転車で訪れて、そこには自分の街にないものがあるのだということを知った。でも、うすぼんやりと、自分はそれを遠巻きに見ているしかないのだなという気もしていた。だいたい、うちの家は水力発電所の技師だった祖父の時代に、すでに中部を転々としていたわけで、その孫たる私も、やはり駿河湾の海辺に吹き寄せられたような根無しなのである。
そんな私にも、自転車の旅でたまたま立寄っただけなのに、強烈な引力を感じるような街があり、ずっと後になってそこに、縁ある人が弔われていることを知ったときの驚きは、まったくもって表現しがたかった。そこに墓参りできる、墓参りできる縁があった、ということがどれほどありがたかったか、たぶん人には想像もつかないだろう。
どうして自分は文章や本を書いて飯を食おうとしているか、これまで自分でわかっていたつもりだったが、そうでもなかった、ということ。それを近頃ようやく認めざるを得なくなっている。もちろん好きなことだからそれで飯を食べたいし、ほかに人並み以上にできるようなこともないし、それなら書きもので多少は名前が知られるようになりたいという欲もある。まあそれ以外にもいろいろあるのだが、要はそれぐらいだろうと思っていた。
40歳にもなると、多くの人が家を建てるか、買うかする。自慢ではないが、私にはそこまでの経済がない。でも40くらいまでになんとか、という別の目標はあり、それはどうにか、人の手助けで実現することができた。それが本を出すことだったのだ。
けれどなぜそうしたかったのか、前述した願いや欲と別に、もうひとつ動機のようなものがあったことに、ちょっと前、ようやく気が付いた。
私のような根無しには、小学校の下駄箱のあたりから、墓を並べるところまでついて回るような地縁はない。いやになるくらい人のことをよく知っていて、だがこと何かあったときには、人をぶん殴ってでも、道と理を教えてくれるほどの共同体もない。まあそれは私に限らず、いまのこの国に生きるほとんどの人がそうであろうと思うが。
そういう根無しが、なんとかやっていく方法のひとつが芸で、だから旅芸人というものが生まれる。持ち家もない、学校に通わせる子供もいない、ここに住むことに絶対の必然はない、そういうことに関してないない尽くしで、せめて自分が立つところを探したら、私には本を書くほかなかったのである。本という架空の土地の上に生きようとするしかなかったのだ。
でもそれは、残念ながら、見映えの良いお立ち台という類のものではない。ただ、しばらく前に、「本を出してから、あまりいらいらしなくなってきたね」とかみさんに言われた。私は昔、自分の仕事は、本というそれなりに立派な建築物を作って、そこに人に来てもらうことだと思っていた時期があったけれど、今は違うイメージを持っている。あえていえば、遠くまでずっと続いているような土地の片隅に、ようやく自分の耕作地を少しわけてもらい、そこで何かを作り続けるように言われている感じなのだ。
それが稲なのか林檎なのかキャベツなのかわからない。そこが田んぼなのか、林檎畑なのか、高原野菜畑なのかわからない。ただそういう印象がある。そしてそういうところを見出すために、自転車に乗っていたのかもしれない。
( 【飯稲記】白鳥和也さん )