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執筆者プロフィール

白鳥和也

1960年静岡県生まれ。小説家・エッセイスト・自転車文学研究室主宰。
最近、念願の小説本『丘の上の小さな街で 白鳥和也自転車小説集』(えい出版社・えい文庫)を上梓。そのほか著書は『自転車依存症』『素晴らしき自転車の旅』(以上平凡社)』など。自転車の旅と書物と米のご飯をこよなく愛する中年男。
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目次
其の一八 深夜プラス椀
(C)Kazuya Shiratori
(C)Kazuya Shiratori
 寝る直前に飯を食うのはメタボ対策的にはいかん、とわかってはいても、真夜中以降未明以前というような時間帯に帰宅して腹を減らしているような場合、つい一杯食べてしまうというようなことは、ありがちなことである。
 
 最近はそういうことはほとんどしなくなったけれど、二十代の頃は、よくやっていた。
要するに腹を減らしたまんまだと、なかなか寝つけないのである。
 
 そのため、家人を起こさぬように、そっと台所に行き、まずジャーの蓋を開ける。この時点で飯が切れている場合は、愕然とし、うなだれて、さてインスタントラーメンでも作るかどうしようか、数秒思案することになる。
 
 飯があった場合、続けておかずの探索に入る。テーブルの上にラップのかかった残り物などがあるといちばんだが、冷蔵庫の中の冷たいものでも、無いよりははるかにありがたい。
 
 焼いた塩鮭の切り身、しらす干し、納豆のパック、だいたいはまあそういうものがおかずとなり、飯の上に載ることとなる。
 
 
 弁当というのは、同じものが入っていても、一種デザインされた空間にレイアウトされた食物だから、同じように冷たいものであっても、それなりに華があったりする。
 
 しかし夜中に一人、冷や飯の椀を手に持つというのは、なにか、どこか、和風ハードボイルド的なペーソスがある。まあどうみても、笑いながら一家団欒で飯を食うというのとは正反対である。
 
 が、だからこそ独りで食べる飯にも、どこか人生を深く考えさせる要素があり、私などは、主に物書き的根性からひどく興味があるのである。
 
 独りで食べても、ちゃんと箸を置いたりして、膳を仕立てるようにして食す人もいるようだ。見えないところもちゃんとお洒落をしているのと同じで、いいな、と私は思う。
 
 なぜそうなるのかは自分でもきちんと分析できていないが、私の場合、適当にご飯をよそって、そこにあるものをおかずにして、一人でむしゃむしゃ食べる、という場合に、なぜか瀬戸物の茶碗ではなくて、通常は味噌汁に使う、椀を使いたくなるのだ。
 
 漆塗り用のそれ、といった上等なものではなく、まさしく味噌汁用の木の椀である。ケヤキの木目が出ているようなやつである。
 
 だいたい私の場合、木の素材というものが好きで体質的にも合っているようなので、そういう選択になるのかもしれないし、冷や飯を、冷たい感じのする瀬戸物でいただくのがいやで、本能的にいくらかでもあたたかみのある木の椀で食べようとしているのかもしれない。
 
 もちろんふだんは普通のお茶碗で食べている。最近はちょっと大ぶりのものを使っている。これだと、ええい、おかわりしちゃうか、という行動が制限されるので、私のような炭水化物取りすぎの傾向があるものには都合がいいのである。
 
 器に対する知識や見識が乏しいので、めったなことは書けないけれど、重箱やめんぱのように、外に持ち出すことが多い容器を、木で作るのも、単に重量を軽くし、器自体を持ち運びで破損しにくくするというだけでなく、冷や飯の冷たさを、できるだけやわらげようとする配慮も含まれているのであろう。
 
 考えてみれば、わが国の伝統的な食器の類には、金属というものがほとんど見当たらない。箸だって木材であるし、ナイフやフォークでないと切り分けられないような肉の塊を日常的に食べるような食文化も無かったように思われる。
 
 弁当箱において金属製が主流であった時代も過去になりつつある。アウトドアで使うコッヘルなどは、やはり火にかけるという用途上、アルミなどの軽い金属が主流であるが。
 
 さても、深夜零時から夜明けまでの時間というのは、普通はご飯も眠っているような時間帯であり、この時間にご飯を食べるということは、通常は異例なのであった。
 
 ほんの三十年くらい前まで、その時間帯にどうしても飯が食いたくなり、しかもジャーやおひつの中がからっぽだった場合、基本的には炊くしかなかったのだ。
 
 それが今なら、地方の中小都市でも終夜営業のどんぶり屋さんとか定食屋さんとかであったかい飯が食えるし、それが難しくても、国道や県道が通っているようなところには、まあたいがいコンビニというものがある。
 
 電子レンジであたためたものでも良しとするなら、二四時間いつでもあたたかい飯が食べられるような状況になりつつある。
 
 だから私も、夜通し空いた腹で運転し続けてくるということもほぼなくなった。途中で牛丼を食べたり弁当を食べたりするので、明け方に冷蔵庫を開けるようなことはしなくて済む。
 
 それでも、家人の寝静まった中、かちゃかちゃと木の椀と箸を取り出して、焼き魚とか、しらす干しとかをおかずに飯を食って腹の虫を抑えることには、何か説明しがたい快感のようなものも含まれていて、いまだにときどきやりたくなる。
 
 それなりに気の張るひと仕事を終えたあと、寝床に入る前に、飯を食らうということ。そこには、生きることのきわめて明瞭で原型的な一要素がある。それは、ハードボイルドの醍醐味である、人生のもっとも単純で鋭利な断面を、ばさっと切って見せることに通じている。
 
 そういう具合に、夜明けに一杯だけ飯を食って事足れりとすれば、なかなか格好がいいのだが、ついつい、一杯のつもりが、もう一杯よそったりしてしまうことがある。これを、深夜プラス椀、という。
 
2010/1/27 16:51 投稿者: yhonda (記事一覧) [ 6218hit ]
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