執筆者プロフィール 白鳥和也 1960年静岡県生まれ。小説家・エッセイスト・自転車文学研究室主宰。最近、念願の小説本『丘の上の小さな街で 白鳥和也自転車小説集』(えい出版社・えい文庫)を上梓。そのほか著書は『自転車依存症』『素晴らしき自転車の旅』(以上平凡社)』など。自転車の旅と書物と米のご飯をこよなく愛する中年男。 自転車文学研究室ブログ |
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其の一三 ミニマルごはん
ミニマルミュージックという現代音楽のジャンルがある。定義づけをご紹介するほど音楽に詳しいというわけじゃないのだが、まあ学生時代の一時期、周囲にそういう音楽に詳しい人がいて、それなりに私も聴いたことがあった。
ブライアン・イーノとか、マイケル・ナイマンとか、ギャビン・ブライアーズとか。レーベルで言うと、ECMにそういうジャンルの作品が多かった。ポピュラーなところでは『風の谷のナウシカ』にも、ミニマルミュージック的な音使いがある。あの印象的なメインテーマや、バロック的なナウシカの回想のテーマではなくて、腐海で虫の群れが登場するときに使われていたものだ。
装飾的で変化多彩な音楽ではなく、要素を減らしてより単純で反復的な音使いを試みる、乱暴に言ってしまえば、ミニマルミュージックの特長は、そんなところだろうか。
ものごとを複雑にする動きがしばらく続くと、反動で、今度はものごとを単純化したくなる。アール・ヌーヴォーのあとにはアール・デコの時代が来る。ま、美術史の話はともかく、ことを食べ物の話にすると、ある部分はもっと明瞭だ。
だいたい私は自他共に認めるB級食事大好き人間で、まずいと思うようなものがほとんどないという、おめでたい味覚の持ち主なのだが、どうも、このところ、いよいよ中年の盛りとなってきたせいか、食事の好みが多少変わってきた。
ちょっと前まで、私のフェバリットは、たとえば、「カツが大きすぎて蓋のしまらないソースかつ丼」とか、香辛料の粒がぶつぶつ入っているニンニク臭いサラミだとか、三日間煮込んだ自作のインド風カレーであるとか、全体的な印象としては、わっしょいわっしょい、という感じの賑やかな食べ物が主体であった。
それがどうも、少し枯れてきたのである。例えば、大量に肉を食べる、というようなことがちと困難になってきた。お手頃お寿司屋さんで、右から左に品書きを攻略する、というような総力戦も、もう難しい。昔はたいへん燃費の悪い人間であったが、最近はいくらか向上した。人間はやはり内燃機関とは違う。旧くなるとエネルギー消費量が減少するというのは、間違いなく神秘的である。
きっかけとなったのは、さる「飯炊き」のお店で、漬物や豆腐や干物やみそ汁、とろろ汁といった元形的な和のおかずを、それはもう美味しく炊かれたごはんでいただく、という機会に出会ったからである。おかずの方も、実に吟味されており、ああ揚げ出しというのはこういうものであったか、といちいち感動してしまうくらいなのだ。
さりながら、そこにある食の感動は、「こは、わが作品なり」と言わんばかりのものの大そうな料理とは、大分趣を異にする。泣けるくらいうまいのに、漬物もみそ汁もごはんも、言ってみれば無記名の存在である。これみよがしに誇るようなところがないのだ。
このお店では、お茶碗も自分の好きなものを適当に選ぶというスタイルになっているが、その辺りからして、そうだ。「この額に入れて鑑賞しなさい」という押し付けがないのである。
あらゆる芸術作品は、ごくごく一般的には、作為の塊だと思われることが多いのだけれど、ことはまあもう少し複雑だ。われこそは当代きっての芸術家、と思い上がったり、信じたり、すがったりすることが微塵もなければ、人はなかなか創作活動を続けられない。
その反面、どうしたって人間である限り、明瞭な限界のある自己の意識や見識や技量を超えたところ、自分の名や作為を超えたところに、作品というものを持って行きたいと思うのも、また創作の不思議だろう。
私にとっては巨大な先達である、SF作家のフィリップ・K・ディックは、こんなことを語っている。「作家というものは、作品を通じて不朽の生命を得たがっている、いつまでも記憶に残る存在になりたがっている、と思われている。だが、それはちがう。私の願いは、『高い城の男』の田上氏がいつまでも記憶に残ることだ」(浅倉久志訳『高い城の男』の「訳者あとがき」に引用されたディックの文章より ハヤカワ文庫)
ミニマルミュージックというのも、ある種、古典的、通俗的な音楽芸術観に対する一種のアンチテーゼを含んでいる。そこにはおそらく、無名性や反復性、偶然性に対する、新しい希求があったはずだ。そうした性質は、自然を記述する言語の基本的な振る舞いでもある。芸術の基本的衝動としての、「自然のやり残した仕事の完成」を、別種の音楽言語で試みようとしたのも、ミニマルミュージックの側面のひとつだろう。
さて、お題の「ミニマルごはん」とは、何もコンセプチュアル・アートのことじゃありませんが、無作為的な美、自然の完成、身体的存在としての作品という点では、おお、芸術というものはここにもあったのか、人間というものはわれ知らず崇高なこともしておるのう、という感じなのである。
私にとっての「ミニマルごはん」は、きわめて単純明瞭だ。少ない素材でごはんの美味さ、飯のありがたみを味わえるものだ。たいがい豪華さというものがないので、まず気張った料理店の品書きに載ることはあるまいが、おそらく皆ふだん食べているものである。
この「飯稲記」の第一回で書かせてもらった、「ツナごはん」なども典型的だ。かつお節をふりかけ、醤油を少しだけ垂らして食べる「おかかごはん(一名 ねこまんま)」なども、魚系ミニマルごはんの最右翼であろう。
やや贅沢になるが、静岡の人間としては、釜揚げのしらすをどどっと湯気の立つごはんに乗っけてる「しらすごはん」も忘れてはならない。絶妙な釜揚げしらすの場合、醤油をさすのは、むしろ風味を損なう場合がある。
漬物は言わずもがな。たくあん、梅干し、野沢菜、ありとあらゆる素材がある。そのシンプルさと、菜食的感動と、裏腹に手間隙の時間の凝縮が心に染みる。ミニマルごはんのつつましき王者という風格だ。
板海苔を載せてごはんを食らうというのも、和の極致だ。ごはんをやや立方体気味に盛り、その上に切り妻で海苔の屋根を載せるというのはどうだ。
季節のものがまたいい。こないだの春は、長野県飯田市の友だちの家で、近所でとった野蒜を醤油漬けにしたものを出してくれて、これがまた絶品だった。昨年知りえた、うまいもの、ありがたきものの筆頭にあげられる。
そこにあるものを食すというのは、すでに哲学的な領域に達している。われわれがいかに恵まれた土地に住んでいるかということは、南極や砂漠に出かけなくても、本来はわかることなのである。
アウトドアでのミニマルごはんは、私の場合、小型飯盒で炊いた飯に、近頃便利なビニール袋入りの食材をおかずにして食べることだ。これならなんとか自転車でも持っていけるのである。空き缶が出ないので、始末も楽なのだ。
とはいえ、ミニマルごはんばかり食べていると、炭水化物過多、塩分過多になりそうなので、これはこれで気をつけなければならないが。ああ、ひとつ忘れていた。びん詰のなめ茸をすくって飯の上に載せ、さらにそこに紅しょうがを載せると、かなりうまい。この組み合わせは私が思いついたものだが、ミニマルごはんにおいて、そういうことを自慢するのは、この稿の主意に照らし合わせれば、不粋というものである。
( 【飯稲記】白鳥和也さん )