最適化、について。

2016/6/2 1:01 投稿者:  ankome

 

学生時代の友人からこんなメッセージをもらった。

「ウチ子が、美大の卒制で食をテーマにしたことでやってみたいと・・・机にあった『ロジカルな田んぼ』(松下明弘著)を読んだらしく、この人に会って話を聞きたい、と言うとるんですが、、いいタイミングある?」

美術学校出身の端くれの僕にとって、それはとても嬉しいことだった。
何より学びの真っ只中にいる若者が「ロジカルな田んぼ」を読んで、その本人に会ってみたいというのだ。
考えることのきっかけに読んでほしいと書いた、松下の意図にも合致する。
こうして5月の最後の日曜日、親子はやってきた。

ー 人は、その人がたべたもので、できている。

学校出てからもうじき30年、米屋になってしばらくしてから、このことに気づいた。
これに気づいてからというもの、その一握を担っている米屋という仕事に誇りが持てた。
田んぼから始まりお茶碗へ至ることを、日々粛々と滞りなく続けられるように勤めることが生業。
上手な言葉が見つからないが、とても静かで、とても創造的な感じがした。

当時はまだ、その流れの中の米屋という一部分しか見えなかったが、
今は「田んぼからお茶碗まで」の全体が、だいぶん見通せるようになった。
せっかく、その始まりの部分「田んぼ」を見、松下に会うのであれば、
僕が感じている、この感覚を少しでも知ってもらいたくて、お節介ながら案内を買って出たというわけだ。

最初に大井川とその扇状地である志太平野が一望できる高台へ行った。
松下が稲作を行っている所を俯瞰してもらおうと思ったのだ。
自然環境や歴史的背景を知ることで、松下の稲作が置かれている背景を知る。
その背景がわかると、なぜ今こうなったのかの様々が理解できるというわけだ。

ー そもそも志太平野は大井川の氾濫原、扇状地なんです。

すこし掘れば砂利が出てくる田んぼ。ゆえに水持ちが悪いし、肥料の抜けも多い。
だから稲は痩せっぽちで収量は少ない。けれど締まった健康な稲が育った。
そういう環境でできた志太の米は江戸時代、当時の人気ブランド米だった。
一行にそんな説明をしたあと、徒歩で世界一の木造橋脚「蓬莱橋」を渡り松下の待つ志太へ入った。

ー 人工と自然、ぼくはこのあたりで仕事しています。

植物が育つ環境を人工状態と自然状態と分けて考えた時、
肩幅くらいに両手を広げた松下が、中心よりもやや自然状態よりを差して「このあたりで仕事してます」と自己紹介を交えて話しは始まった。

人工←ーーーーー→自然
                      ↑
                このあたり

農業はけっして天然自然ではなく、人にとって都合のよい環境を人工的に作り出し、その環境で育てた生物の命を収奪すること。
有機だろうが、有機でなかろうが、それは然したる違いはない。さらに言えば、その明確なボーダーもない・・・。
かいつまんで言うと、冒頭こんな内容のことを松下は言った。

ー この田んぼ、スカスカでしょ。でも結局収量にそれほど差は出ないんだよ。

先週(4月25日)田植えしたばかりのカミアカリの田んぼへ移動。
周辺の田んぼに比べ、明らかに苗の株数の少ない目の前の田んぼを眺めながらこんな話しを始めた。
米とは田んぼに降り注ぐ太陽エネルギーと土中に含まれるエネルギーの合成物。
株数が多くても少なくても実る米の量はだいたい決まってる。
株数が多ければ一株あたりの収量が減るし、株数が少なければ、株間いっぱいに分けつし一株あたりの収量が増えるだけのこと。
じつは株数が多い密植状態田んぼでは、稲の健康が損なわれやすく病気や害虫の餌食になりやすい。
それを防ぐため結局のところ薬に頼ることになる。これでは有機稲作にならない。
収量を求めなければ、そのリスクは回避されるが、農家経営という健康状態が損なわれることになる。
有機稲作ではここがネックになる。
田んぼのグッドバランスが経営においてもグッドバランスでなくてはならない。
眉唾に聞こえるが、米屋がそれを引き受けることになるわけだ。

ー 秋田杉でつくる電話機・・・?

松下が仕事に戻ったあと、我々は静岡へ戻り、日焼けで火照ったからだをビールで冷ましながら歓談した。
「ところで長坂さん、何がきっかけでお米屋になったんですか?」
いくつかの理由はあったが、そんな質問を唐突に聞かれて、ふとあることを思い出した。
80年代の終わり頃、ある工業デザインを専門に行う会社でアルバイトしている時、
上司の一人が電話機を作る素材に秋田杉を使うことを提案した。それが僕にはとても残念に思えた。
何十年も経て育てられできた材が、その美しい木目のビジュアル的価値だけで、現場感なしに安易に評価され
電話機を作る素材として、最適な素材なのかの検証も曖昧なままに提案されたことに、ちょっとした理不尽さを感じたのだった。

「部分の最適化」だけで判断していいのか?

秋田杉という植物として、材となった素材のことを学ぶことはもちろん、
その素材が最も活かされる状態(製品)を考えなければならない。
またそれを買ってもらい、使ってもらう人にも共感してもらうように、寄り添うような関係も必要なはず。
つまり「全体の最適化」を関わる人みんなで共感していないと、本当の意味で秋田杉は活かされないのではないか・・・。

今ならこんな風に文字にできるが、当時の僕にはそんな言葉も情熱もなく、ただ悶々としているだけだった。
ところが、これと同じようなことを昔から意図せずやってる現場が身近にあることに気づいたのだった。
それが、実家が経営する米屋「安東米店」だった。

米屋になるきっかけのひとつに、こんな話しもありました。
その後、松下と出会い、米という素材で全体の最適化、つまり「田んぼからお茶碗」までが本当にできるようになるとは、当時は思いもよらないことでした。

 

走り書きのような、とりとめのない文章で恐縮です。
_

画像上:通称「学校前」と呼ぶ、カミアカリの田んぼ。4月25日に田植えをした。
画像中:一ヶ月ぶりに会う松下はすっかり赤銅色。
画像下:カミアカリ