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記憶の地平【18】

人前でお話しをする機会が、今月と来月そして年明けにある。お話しする内容はカミアカリをはじめ、これまでアンコメや僕自身が考えてきたアイデアやプラン、そして実際にやってきた活動のことなど。今それらを毎晩整理している最中なのだけど、整理していたら、その話しの源泉は過去の記憶にあることに気づいた。そこで、その整理がてら、このコンテンツで少し書いていこうと思う。ご迷惑かな?まあちょっとお付き合いくださいな。

 

記憶の地平【18】 希望 Gigue

 

さんざん書いてきて、はてさてどうしたものか?結末に迷っている。
ここはやっぱり希望を書くとしよう。

 

この先の答えは、米を作る人、商う人、食べる人、それぞれが発掘すべきものだと思う。
それぞれの方法と道具を使って、それぞれにとっての答えをね。

これはカミアカリだけに限らず、米を食べて生きてる人の、云わば義務だと思っている。

義務って云うと、意地悪に聞こえるかな。

まあ、意地悪は、僕にとって「高級なもてなし」ですから、お許しを。

僕はカミアカリドリームの中に、そういうモノとコトを仕掛けてしまった。

いつのまにかに。無意識に。

まるで、「切り株」のようにね。

 

僕の脳内で覚醒されたこのイメージ、その実体は何なのか?
そう考えてみると少しわかるはずだ。
我々は米を食べる。それはどういうことなのか?
米粒一粒の中には、鎖状のブドウ糖でできた200粒の澱粉が、17万の細胞室の中、一つ一つに整然と集積されている。
それを僕らは糖に変換し、エネルギーとしている。
その中の相当量は脳内で覚醒し、僕の今で説明するなら、鎖の解かれたブドウ糖が、状態のイメージとなり、それが言葉や文字に変換している。
そう云えば一ヶ月前、僕の食べたカミアカリは、僕という名の精製工場で、僕をこんな行動に導いた。

 

旅をしたくなった。
それは日曜日のこと。身近な海まで、忽然と歩き始める。
そして道すがら、足元を見る。虫の目でね。
道端の雑草に目を凝らしたり、その動向を感じたり。
石ころと砂の間の境界線は、どこらへんだろうと考えたり。
小さな水たまりに住んでる微生物の一生を、寅さんやスヌーピーなら何て解説するだろうと考えたりね。
そんなささやかな、ありもの探しをした。

 

あの日、僕が食べたカミアカリは、こんなイメージに変換されたのです。
つまり、僕を通じて出来事や風景は「認識」されたというわけです。
これが必要なことなのか?必要でないことなのか?それは個人的な問題かもしれませんね。
「記憶の地平」で書いてきた事柄すべても、それだけのことかもしれません。
これもまた僕の個人的な関心事の産物ですから。
しかし、その僕が個人的関心事だと思っていることは、稲、それも、カミアカリがその素材となって生まれた「状態」のイメージです。

それがこれまで、僕を通じて新たな価値を生もうとする原動力であることは、紛れもない事実です。

 

その僕が希望することがあります。それはたいへん単純なことです。
それは、
「作り続け、商い続け、食べ続けること」。
それらがあってはじめて、あるかもしれない地平が存在し続けられるから。
もしこれらのことの一つでも止めてしまえば、この地平は消えてしまうことでしょう。
それはつまり虚無です。
だから僕らは、ささやかでいいから、これを続けていくわけです。
はてしなく、そしてゆっくりとね。

 

これが今、僕の説明したい「美しい状態」。そのすべてのことです。

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ここまで読んでくれたアナタへ、ほんとうにありがとう。そしてヨハンさん!伴奏感謝。
Bach cello suite No.6 Gigue
 

※朝になって少し整理できたので、直しました。きっとまた直します。サンクス板さん!

 

2010年10月29日 [ 4097hit ]
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