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6月15日号 田植えは始まりの終わり。

 小笠山にトレッキングに行った帰り、六合駅で途中下車して田圃へ寄ってみた。作業小屋に近づくにつれFMと思われるラジオの音が聞こえてきた。「いるな・・・」ヤツが仕事していることが道を隔て、姿が見えないところからもわかった。

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一部の苗で下葉が枯れるほど生長スピードが速まった。辛いことだが、その分をすべて作り直すこととなった。畔に積み上げられた失敗作は、早々に土に返るはずだ。それもまた数億年の歳月を掛けて山になるか谷になるかするはずだ。そういう繰り返しがその土地固有の個性を形作ってきた。その履歴を意識して栽培技術に反映することで、その土地らしさ、言わば「地味」が現れると思っている。

 「終わったな・・・」
田植えの作業がひと段落、あるいは終わったということも同時に感じた。でなければこんなに大きな音でラジオを鳴らすはずがない。

 「よう!目鼻ついたようだな・・・」
声をかけると、見るからに疲れた顔でヤツが振り向く。
「なんだ、今日も自転車か?どこへ行ったんだ?」

 「小笠山、山登りだよ。ちょっと興味があってね、知ってるか?あの山、もとは大井 川の河口だったんだぜ。そこが隆起したのが小笠山なんだってさ。この辺もそのうち山になるかもな・・・」
ご存知のように、この田圃もかつて大井川の扇状地、数億年後には山になる運命かもしれない。そんなことを思ったのだ。

 そのもしかしたら山になるかもしれない田圃での田植え作業も、残すところ目の前にある一枚の田圃のみとなった。
梅雨時にしては雨降りが少なかった6月初旬の天気のおかげで、休む日もなく思いがけず仕事が進んでいた。一見順調に進んだように見える序盤の仕事も、じつはそう順調でなかったという。
田植えの作業スピードよりも苗の生長が早かったことで一部下葉を枯らしてしまったのだ。約10町歩(10ヘクタール)しかも一枚が5畝(一反の半分)しかないような細切れの田圃まである作業をたった一人で行うリスクが表面化したのだ。それでももう一度作り直すだけの材料とエネルギーを持ち合わせているところが松下らしいところでもある。

 それでも余計な仕事をすればそれだけ体力を使う。雨が降ってくれれば休むことができるが天気が良ければやはり急ぎ仕事を進めるほかない。それが疲れ顔の原因というわけだ。
しかしその疲れ顔がまた一種の安堵を感じる印でもある。毎年その顔をファインダーの向こうに見る時が一年を通じて一番好きな時期だ。しかし同時に少しさびしい感じもする複雑な瞬間でもある。

 「ああこれで終わっちゃうんだよな・・・」
帰り際に松下が言った。ヤツもまた「田植えが始まりの終わり・・・」と、感じているらしい。まだ3ヶ月以上の長旅があるというのに。

 

田植え作業も苗場として使っていた田圃一枚だけを残すのみとなった。毎年この場所がラスト。それが終われば一段落と言いたいところだが、機械の整備などの後片付けがたっぷりと残っている。それでも時間と勝負の日々は稲刈りまでしばらく休戦。後はきまぐれ微生物たちの機嫌を損ねないように草取りがてら声を掛ける日々が始まる。田植え作業も苗場として使っていた田圃一枚だけを残すのみとなった。毎年この場所がラスト。それが終われば一段落と言いたいところだが、機械の整備などの後片付けがたっぷりと残っている。それでも時間と勝負の日々は稲刈りまでしばらく休戦。後はきまぐれ微生物たちの機嫌を損ねないように草取りがてら声を掛ける日々が始まる。

2008年01月28日 [ 3033hit ]
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