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3月16日号 龍の子太郎のはなしの巻

 配達の車の中でNHKの教育ラジオを聴いていたら、「お話しでてこい」という懐かしい番組で「龍の子太郎」をやっていた。日本の昔話の定番だから、誰しもどこかで聞いたり読んだりした記憶があると思う。
  貧しい山村に生まれた龍の子太郎が、その貧しさのゆえに龍になってしまった母親、その龍が住むという大きな湖を探して旅をするお話しだ。最終的にはその大きな湖を水田に変え、貧しさから解放するというストーリーである。

 龍の子太郎が旅の途中に山間地の集落を通る場面でこんなことを言う。「ここに住む村人は白い米の飯など一度も食べたことがねーだろうなー」。また、龍となった母親の住むを前にしてこんなことも言う。「この湖をぜーんぶ田圃にすれば、もうひもじい思いをしなくてもいいんだ」。そして最後のシーンでフィアンセと思しき少女とともにこうも言う。「一粒は千粒に〜千粒は万粒に〜!」。

 子供の頃から親しんだこのお話し、今日は何だか少し素直に聞けない・・・。

 貧しさから脱出したいと思う気持ちはごく当たり前のこと、そのために稲の栽培が困難な痩せた土壌の山間地を脱出して未開拓の大きな湖を大規模干拓するというプランもよく分かる。なにも龍の子太郎に、「そりゃあんた、大規模干拓で効率の良い稲作も分からないわけじゃないけど、何か別の方法がないか今一度考えてもらえないだろうか・・・」。なんて余計なことを云うつもりもない。
  ただ、どうしてもこの美しいお話しを素直に聞けない自分がいるのである。

 よくよく考えてみると、そのちょっとした違和感とは龍の子太郎の大規模干拓プロジェクトに向けたものではなく、豊かになった現代の稲作においても、龍の子太郎的美学が、どこか信じられているような節がある。そこに向けられたものだった。

 龍の子太郎のような人達が活躍していた時代は、化石エネルギー採掘以前の時代だと思う。化学的な農薬もなく、化学肥料もない。もちろん化石燃料で動く大型機械もない。まさに慣行栽培が人力による有機栽培の時代だ。そういう時代においては、未開の自然環境の中から稲作に好条件の土地を見つけ出し確保することこそ最重要だったはずだ。そんな時代だからこそ、龍の子太郎が奔走する様子も納得がいくお話しなのだ。

 ところが現代の稲作においては、龍の子太郎時代の最重要条件は、最重要とは言えない時代になっているような気がしている。化学肥料があるおかげで痩せた土地でも栽培は可能になったし、人手がなくても農薬や農業機械によって一人でも仕事はこなすことができる。きっと龍の子太郎が夢にまで見た稲作の姿が今我々の目の前に広がっているのだろう。

 それにも関わらず、現代の多くの稲作が豊かそうに見えないのは何故だろうか。
せっかく条件の良い田圃でも、その良さを生かせず、豊か過ぎるがゆえに貧しい稲作になっている光景を見ることがある。そんな場所があるかと思えば、「こんな悪条件で・・・」と絶句するような環境でも生産者の創意と工夫で素晴らしい稲作を見ることもある。

 現代の稲作とは龍の子太郎のように旅をしなくとも、足元にある空間で豊かな稲作ができるすばらしい時代でもある。万一その場所の条件が悪いとしても、いや悪いからからこそ工夫が生まれ、それと格闘するうちに、いつしかそこでしかできない稲作のカタチ、オリジナリティが生まれるような気がしている。そういう価値をきちんと評価した上で、今一度龍の子太郎を読み返してみなくてはならない。

 要するに、現代における新しい「龍の子太郎伝説」を作らなければならない時代が来ているように思うのだ。それは機械もおおいに利用し、これまで培ってきた様々な技術も駆使しながらも、足元に広がる地域との有機的関係のもとでできる稲作の時代だ。


AMしか聞くことができない軽トラックのラジオ、今日は「龍の子太郎」が流れてきた。
AMしか聞くことができない軽トラックのラジオ、今日は「龍の子太郎」が流れてきた。
2006年01月28日 [ 3032hit ]
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