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友と友、その友と、友。
友と友、その友と、友。

 

グランシップにてイベント。グリーンフェスタ。
アンコメ、2回目の参加。
ゆとり庵さんとコラボして作ったおむすびを販売。
おかげさまで盛況。ご来店いただいたお客様に感謝。

 

こういうイベントはちょっとしたサロン。
いろんな人と偶然かつ複雑につながるから面白い。

 

初対面の人と話しをしていると、友が来る。
その友が、その初対面の人と、昨日たまたま初対面だったという。
その話しをしていると、またもう一人の友がやって来て、
「なんだ、君ら知り合いなの?」と云う。
そう云った友が、「よう元気!」と手を振った相手が、さっき名刺交換したばかりの人だったりする。

 

まあ誰しもこういう場にいると、こんな経験はあるだろうな。
今日は、そういう日だった。

_

 

17才の今頃、一つ年上の友とやるせない気持ちで聞いた。映画みたいな事件のあとに。
The rolling stones - Beast of burden
 

2010年10月24日 [ 3586hit ]
我一人語紅葉山。
我一人語紅葉山。

 

午後から紅葉山庭園内茶室にて、20人ほどの前でお話をさせていただいた。
アンコメのこと、カミアカリのこと、炊飯のこと、稲作のこと・・・。
参加された方は、大先輩方。緊張。
カミアカリを、6合炊いた。
スケジュールと設備の都合上、今日は炊飯器。
水をいつもより減らしてみた。思っていたより、いい感じに炊けた。

 

食べていただくことが、喋るよりもはるかに伝わる。
そんなわけで、鋭い質問が多かった。
緊張はしたけど、いい会だった。
こんな機会が、来月、そして年明けにもある。
動けば動くほど、カミアカリの地平が、ほんの僅かであるけど見えてくる。

 

どうしてもその地平が見たい。
それに今、行かなければその地平は消えてしまいそうな気がしている。
こんな仕事に挑戦できる自分を誇らしく思う。
明日もまた、早朝より動く。
今日は寝ます。

_

 

お礼:
ご準備いただいたM様、このような機会を与えていただきましたこと、感謝致します。
ありがとうございました。

 

画像上:県庁東館展望室より巽櫓と紅葉山庭園。

画像下:県庁東館展望室より静岡駅方面。駿河湾の向こうに薄っすらと伊豆半島。

2010年10月23日 [ 4042hit ]
記憶の地平【14】
記憶の地平【14】

 

人前でお話しをする機会が、今月と来月そして年明けにある。お話しする内容はカミアカリをはじめ、これまでアンコメや僕自身が考えてきたアイデアやプラン、そして実際にやってきた活動のことなど。今それらを毎晩整理している最中なのだけど、整理していたら、その話しの源泉は過去の記憶にあることに気づいた。そこで、その整理がてら、このコンテンツで少し書いていこうと思う。ご迷惑かな?まあちょっとお付き合いくださいな。


記憶の地平【14】野の趣き。

 

2001年。最初の年、僕はただ黙って見ました。
ここで何が起こっているのか?この松下という男が何を考えているのか?
ありのままを、真正面まら理解するには、それが一番だと思ったからです。
作業の合間や後に、日が落ちるまで話しを聞きました。
話しのほとんどは、稲の生命生理です。
米としての美味しさや、質、量など、多くの稲作生産者が興味を持つことにはあまり関心がない風でした。
そしてまた彼は飢えていることが分かりました。
それは彼の好奇心が満たされないところからくる飢えだと感じました。
その好奇心への渇望は、妙な表現で彼の口から出力されていました。

 

「俺が普通の農業で、周りが特殊化学農法なんだ・・・」。

 

このメンタリティー、じつは僕の中にもありました。
でも、それはきっと将来通用しないだろうとも思っていました。
つまり、なにかのアンチテーゼであるうちは、自立できない。
テーゼがあってのアンチテーゼの存在は、本当の自立、本当の満足、あるいは本当の創造は、ないだろうと考えていました。
それに彼の仕事は、もうすでにその領域から出つつあったようにも思ったからです。

 

その年収穫された米を早速食べました。
その米は、けっして褒められるレベルの米ではありませんでした。
はっきり云うと、美味しくなかったのです。
ただ、一つだけ引っかかる何かがありました。何とも云えない風味があったのです。
ふとアイデアが浮かびました。玄米で炊いてみたのです。
白米で炊いた時より数倍、いやそれ以上にその風味が爆発しました。
とにかく、炊いている最中からして、香りや湯気の出方が他のものとは明らかに違っていました。
それは今まで感じたことのない独特のもの。
それを僕はこんな言葉に表しました。


「野趣」


そこでその年、「松下×安米プロジェクト米」と命名した彼と僕の一作目のお米、そのオススメキーワードは、こう表現したのです。
「野趣溢れる独自の風味。それを味わうなら玄米と分づき米がオススメ」としたわけです。
折から、無農薬有機栽培米を玄米、分づき米で食べたいというニーズにはピッタリで、9月下旬に入荷した35俵(2100kg)は3月中旬には、すべて完売したのでした。

 

売れれば満足と思っただけではありませんでした。
販売期間中もその後も、ずっと気になっていたのが「野趣」の正体でした。
どうしてこういう、他の米にはない風味と風合いを持つのか?
そして、栽培期間のこと、畦で長時間話したことを思い出しながら考えたのです。
そこで気がついたのです。
「この稲は、人に飼われてないんだ」。
家畜化されないで、稲が稲らしくきちんと生命生理活動をするとこういう風になるんだと。
事実、河川敷などの叢の中を掻き分けて歩くと、あの野趣をイメージするような香りがあることを思い出したのです。

 

そしてまた、野趣として奏でられている味や香り、風味風合いの中に、
松下明弘の作為が微塵もないことを知るのです。
当時の彼には、米の味や香り、触感などに、全く興味がないことからも、それは証明できます。
これは大きな気づきでした。
そしてこれは、僕が希求して止まない「美しい状態」が、米の中で発見できた時でもあったわけです。

刹那というオマケ付きでね。

 

__

 

今日ももうこんな時間、地平の神さま、また明日。
Bach cello suite No.6 Allemande

2010年10月22日 [ 4033hit ]
記憶の地平【13】
記憶の地平【13】

 

人前でお話しをする機会が、今月と来月そして年明けにある。お話しする内容はカミアカリをはじめ、これまでアンコメや僕自身が考えてきたアイデアやプラン、そして実際にやってきた活動のことなど。今それらを毎晩整理している最中なのだけど、整理していたら、その話しの源泉は過去の記憶にあることに気づいた。そこで、その整理がてら、このコンテンツで少し書いていこうと思う。ご迷惑かな?まあちょっとお付き合いくださいな。

 

記憶の地平【13】松下明弘、その現場。

 

僕にとってのこれまでは、この人のこと、この人の米を理解するための準備だったのではないかと思っています。

 

名前は松下明弘。
彼は僕と同じ昭和38年生まれ。
ニッポンが高度成長期の頃です。それはまた二千年以上続いているニッポン稲作の歴史においてもターニングポイントの頃でした。
米不足の時代から、初めて米余りの時代へ移行するその瞬間だったのです。
その時に我々は生まれたのです。

 

初めて会ったのは1997年9月。静岡駅前の居酒屋、今でも忘れられません。地元新聞社のHさんの紹介でした。
最初の印象は、ただただ圧倒されただけでした。
僕が話す間もなく、彼は大出力でした。まあ今も相変わらずですがね。
すでに彼は静岡県内では有機栽培米生産家として名が知られており、その正体にとても興味がありました。

その後、彼は秋になると自らが手掛けたお米を試食してほしいとやって来ては、長話ししました。
正直云って、酷い米でした。品種はコシヒカリ。
知名度と品物に大きなギャップがありました。
だから、当時アンコメで扱うなど、到底考えられないことだったわけです。

 

出会ってから4年目の春、彼から電話は入りました。
「今年秋収穫する米を買ってくれないか?」
「いいよ」瞬間的かつ感覚的に判断しました。
その代わり、ひとつ条件を出しました。
「僕に、有機農業。それから稲作が何なのかを教えてほしい。」と伝えました。
彼は快くそれを了承してくれました。

 

早速、その週の週末に彼の田圃へ行きました。
まだ田植え前で、田には水もなく、地肌が見えて殺風景でした。
そして、その光景に驚いたのです。
およそ有機農業という言葉のイメージとは真逆の風景がそこにあったからです。
それは今も変わるどころか、さらにアップデートしています。
具体的に言葉にしてみましょうか。

 

田圃は住宅や工場に取り囲まれています。
見晴らしのいい田圃は、ほとんどあまりありません。
用水路は素人目には綺麗に見えません。(今は愛おしく見えてます)
新幹線が数分おきに爆音と共に走り、かつての神社の参道を分断しています。
その向こう側には東名高速道路が24時間休みなく走っています。
発電所から大量の電気が運ばれる高圧電線が視界の中にあります。
ある田圃ではパチンコ屋のイルミネーションや水銀灯に深夜まで照らされています。
生産家の彼は、有機農業者のシンボル、作務衣と髭姿ではなく、安タバコをふかしていました。(数年前にようやくタバコはやめました)

 

僕はその有様を見て廻り、ほどなくしてから、強烈に面白いと思いました。
ここに多くの人が「有機」という言葉から抱くであろうイメージ、記号的なものがあないこと。

それどころか、期待されるであろうほとんどのことを、すべて裏切っていたからです。
同時に痛快だとも思いました。

それからすぐアイデアが浮かびました。
これを真正面に理解するには、これまで考えてきた、モノの捉え方の手法が役に立つと思ったわけです。
同時にこれをきちんと説明する義務が僕の中に芽生えた瞬間でもあり、
もしかしたら、僕でないとこれを説明することができないかもしれないとも思いました。
しかしまあ、当時の僕は、稲のこと、米のこと、ご飯のこと、すべてがあまりにも無知でした。
そんなわけで、週末になると田圃通いが始まったというわけです。
今それは月一程度にはなりましたが、続いています。

僕はこの日以来、「田圃からお茶碗まで」を、はっきりと意識しはじめたのです。

_

 

ジーグまで書けるか?
Bach cello suite No.6 Prelude

2010年10月21日 [ 3726hit ]
ミッション。
ミッション。

ESI。僕がたまたま隊長をさせていただいている飯炊き部隊。
正式名称、エクストリーム・スイハニング・インターナショナル。
今日は久々ミッション。

現場は、静岡市内マッケンジー邸。
じつは、静岡出身の映画監督、浜野佐知さんの新作映画「百合子、ダスヴィダーニャ」のロケ。
ESIが昼食準備のボランティアとして参加させてもたった。


月曜日ということもあり10人いる隊員の内。参加できた隊員は6名。
臨時隊員として召集した5名が加わり、総勢11人でミッションにあたりました。
炊くお米の量は、静岡森町堀内米キヌヒカリの白米8キロと静岡藤枝松下巨大胚芽米カミアカリの玄米2キロ。
しかも、炊いたご飯をすべて40人分のおむすびにする。
それを11:45に始まる昼食タイムに仕上がるように段取りする。
先々週そのための演習をやったとはいえ、本番はかなりタフだった。
それでもスイハニング精鋭部隊のESI、完璧な仕事させていただきました。(自慢)


想定量より多くのおむすびを作りましたが、すべて完食。
浜野組の皆さんは、一粒残らず食べていただきました。ありがとうございました。
しかも浜野監督をはじめ、出演者である俳優の大杉漣さんにも、たくさんお褒めいただき、最高の気分でした。
あ〜あ、楽しかった〜。

 

このミッションにご協力いただいた多くの皆さん、お忙しい中、本当にありがとうございました。
また美味しそうに残らず食べていただいた浜野監督、そして浜野組の皆さんにも感謝。
それからいつも、厳しいミッションに嫌な顔もせず楽しんで励んでくれるマエストロはじめESIすべての隊員、グラシアス。
それからそれから、このミッションに縁を作ってくれたESIイシガキ隊員、いい仕事でした。
とにかく皆さん本当にありがとうございました。ES愛してます!

 

画像上:俳優の大杉漣さんが、ESIのTシャツを着て揃って撮影。ESI名誉隊員となる?!
画像中:いつも異なる環境でやるミッションは、つねにエクストリーム状態。
画像下:マエストロアンクルJ。ESIにとってこの人がいないと何も始まらない。マエストロ以外は白Tは着ることが許されないのだ。

 

2010年10月18日 [ 4472hit ]
記憶の地平【12】
記憶の地平【12】

人前でお話しをする機会が、今月と来月そして年明けにある。お話しする内容はカミアカリをはじめ、これまでアンコメや僕自身が考えてきたアイデアやプラン、そして実際にやってきた活動のことなど。今それらを毎晩整理している最中なのだけど、整理していたら、その話しの源泉は過去の記憶にあることに気づいた。そこで、その整理がてら、このコンテンツで少し書いていこうと思う。ご迷惑かな?まあちょっとお付き合いくださいな。

 

記憶の地平【12】足元からの発見

 

家業である米屋の仕事をやってみようと思った。
どうやらその中に、自分が求めているもの。「美しい状態」がある気がしたから。
まあ贅沢な話しですよね。やってみようと思ってやれちゃうんだから。
かつてロッキーをいっしょに見に行った従兄弟のHに言われたことがあります。
「おまえいいよな。家に帰ればいいんだから・・・俺は自分で居場所を見つけなきゃならないんだぞ」
職を求めることの厳しさから考えれば、「あまい」と云われているような気がしました。
でも、それはちょっと違うんです。今は上手く説明できませんが。

 

最初の5年、がむしゃらでした。
「美しい状態」のことを考える間もなく毎日朝から晩まで車に乗って営業に没頭しました。
好きな音楽も忘れ、AMラジオしかない営業車の中はいつもにNHK教育ラジオ。
移動時間は大学の通信講座のような日々でした。
まあそれが当時の僕には新鮮で面白かったんですがね。
おかげで少し物知りになりました。

 

ある日、少し心に余裕ができた時、CDを買いに呉服町通りに行ったわけです。
するとあるはずのところにその店がない。
しかも知ってるはずのその通り風景も少し違って見え、歩いている人の服装もまた違って見えたのです。
映画「バックトゥーザフューチャー」で未来へ行った感じ。そこまで極端ではないにせよ、そういう感じでした。
つまり、ひとつのことだけにに没頭していた5年間だったわけです。

 

6年目のある日、お米のことを何も知らないのに、お米を売ってる自分に気づきました。
お米どころか、稲のことも、ご飯のことも何も知らないわけです。強烈に恥ずかしくなりました。
ちょうどその時、地元新聞社のHさんが編集する農と食がテーマの雑誌、そのレポーター役のやってみないかと誘われました。
静岡を代表する稲作生産家に会いに行くというレポートでした。
僕は飛びつきました。稲作というものを知りたかったからです。
夕方に現地に入り、深夜2時か3時頃まで、色んな話を聞きました。
聞くものすべてが新鮮でした。衝撃的な時間でした。それが1996年秋のことです。
そして翌年の1997年、僕の人生を変えるきっかけとなる大きな出会いがありました。
それもまたHさんがきっかけでした。そう、松下明弘との出会いです。


そういう出会いをすることで、僕なりの米屋像、あるいは仕事への意識が、見え始めたものがありました。

つまり薄れ掛けていた「美しい状態」が、ようやく仕事の中に鮮明に見え始めた。そんな時でした。


それは云わば木こりのような仕事。しかもただの木こりじゃない。
なんというか「想像のレンジが広い木こり」。そう思い立ったのです。
難解ですよね。解説します。

 

木こりは、木を切ることが仕事です。ですから、木を切ればいいんです。
しかしそれだけではありませんよね。
例えば、用材として適切なコンディションの木になるように育てること。
またそれらを広大な山林の中から選ぶこと。
そして注文どおり手際よく伐採し、運び出しやすいような位置に倒木させ、無駄なく運び出すこと。
とにかく正確に、効率良く、その時代の経済状態に則した形で仕事を遂行すれば、優れた木こりなわけです。
僕はその上で、これが無意識にできる木こりになりたいと思ったわけです。

 

切り株の姿を、一瞬脳裏にイメージして木を切る木こり。

 

つまり、木こりの仕事は、あくまでも木を切る仕事で、切り株を作る仕事ではありません。
しかし、切り株はいやおなく残存します。
それがどんな姿だろうとも、無視することはできるでしょう。
しかしそこに、なんというか・・・想像のレンジをほんの僅か広く持ったとします。
つまりそれは、作為なく切り株という物体が生まれる瞬間でもあるのです。
例えば、その切り株を見たある人が、「ちょっと腰掛けてみようかな?」と思って座ったとします。

ほかの切り株よりも、佇まいがどこか魅力的に見えたからです。
それこそが、僕の希求する前家畜化時代の物体、「美しい状態」なのです。わかりますか?

 

じつは、80年続いてきた安東米店は、そういうコトをしているのではないかと思ったわけです。
いや長年続いている仕事の中には、どんな仕事でも、こんなエッセンスがあるように思えるのです。

腰掛けさせるのではなく、腰掛けてみたくなるような何かが。
これを人によっては「文化」という言葉にする人もいるでしょう。
これが、僕の米屋像、あるいは仕事への意識の深層です。
つまりそれは学生時代から希求し続けた「美しい状態」そのものです。

ついにそれが足元にあることを発見できたわけです。

 

ただし、まだそのことを、説明するコトやモノ、そして技はないに等しい状態でした。

そして、アイツと始まるんです。松下明弘と。

 

次回はいよいよ松下明弘をどう捉えてたか?
これまでの思索を総動員して理解し価値を紡ぐ作業のはなしを始めようと思う。

 

※少し手直ししました。もしかするとまた手直しするかもしれません。ここポイントですから。

__

 

勇気が萎えそうな時にはこれを聞く。
Kirsty MacColl - No victims.
 

2010年10月18日 [ 4056hit ]
記憶の地平【11】
記憶の地平【11】

人前でお話しをする機会が、今月と来月そして年明けにある。お話しする内容はカミアカリをはじめ、これまでアンコメや僕自身が考えてきたアイデアやプラン、そして実際にやってきた活動のことなど。今それらを毎晩整理している最中なのだけど、整理していたら、その話しの源泉は過去の記憶にあることに気づいた。そこで、その整理がてら、このコンテンツで少し書いていこうと思う。ご迷惑かな?まあちょっとお付き合いくださいな。

 

記憶の地平【11】土漠の中で。

 

エンセナーダの下町にある酒場。
西部劇そのものズバリという感じ。マリアッチが奏でる音色が気分を盛り上げる。
これから数週間、旅を共にするアメリカ人達と旅の安全を祈ってセルベッサ(ビール)で乾杯する。
つまみは、お約束のトルティーアにサルサ。

ここは、メキシコのカリフォルニア半島、半島北の州都である。
明日の早朝からこの半島を南の州都ラパスまでモーターサイクルを馬代わりに旅をするのだ。
距離約1600キロ。ニッポンの本州を縦断するのと同じ距離である。

 

18歳の時に運転免許を取って以来、モーターサイクルで旅をするのが好きだった。
最初は身近にあったスーパーカブで八ヶ岳周辺を旅した。
それ以来、休みになればテントとシュラフと飯盒、焼き網、塩を積んでキャンプしながら旅をした。
そのうちに、舗装された道がつまらなくなり、未舗装の道を探して旅するようになった。
それもつまらなくなり、道でないところを走る面白さを知ってしまう。
しかしまあ、ニッポン国内で道でないところを走るのは、色々と問題があるので
山間地にある林道を走り旅するようになっていく。
それもできるだけ、整備が行き届いていないような、原始的なルートを好んで走った。

 

そういうことをしているうちに、どうやらメキシコにその手のワンダーランドがあることを知る。
そこでは毎年、モーターサイクルのレースが行われていて、その名を「BAJA1000」と呼ばれていることも知る。
BAJA(バハ)は下という意味のスペイン語、カリフォルニアの下というわけである。
そこをノンストップで1000マイル(1600キロ)走るのがこの名の由来というわけだ。
もっとも僕は、レースなんてのものには興味がなく、道か道でないか判別できないようなところを1600キロも旅ができることに、ただただ興奮していたわけです。
じつはこの行為もまた、美しい状態への憧れ、手垢のついてない大地、つまり家畜化されてない状態への希求の一部だったと、今にして思います。

 

気温45℃、湿度10%以下。
大きなサボテン、潅木の林、干上がった湖、細かな砂、青すぎる空。
原始の世界の中を、一日中ひらすら走るのです。
ふと「2001年宇宙の旅」の最初のシーンを思い出しました。
走り出してすぐ、腰に2つの水筒を付けろと仲間た云った理由が分かりました。
想像以上に過酷な環境だったのです。

 

その広漠たる土獏の荒野を駆け抜ける中に、時々小さな村に出会います。
それらの村々には、人の気配のない、小さな祠のような教会だけが、ひっそりとある村もあります。
名前は忘れましたが、小ぶりながらも石造りの立派な教会のある小さな村で休憩しました。
西部劇よろしく男達が鉄馬から降ります。
しばらくしたら杖をついたお爺さんが近寄ってきました。
「オラ!」同行のアメリカ人が声をかけます。
そこでしばらく会話しました。
モンゴロイド系、顔つきが似かよった僕が気になったようです。
ポケットスペイン語会話辞典片手に、あとは身振り手振り。

 

ここで一人で暮らしていること。
小さな畑があること。
痩せた牛も飼っていること。
ラジオを聞いていること。
たまに旅人と話すこと。

それが会話で分かったすべてでした。


そしてまたラパス目指してモーターサイクルに跨りました。
山岳地帯を抜け、コルテス海と呼ばれる空と同じ色をした海の見える湾岸に面した小さな町で、一日体を休めました。
レストランで食事をしていても、夜仲間と飲んでいても、
あのお爺さんのことが、気になって、頭の隅にいつもありました。
あの土獏の世界で生きることの意味というか、人生をどう理解したらいいのか?
毎日、なにを見、なにを食べ、なにを飲み、なにを笑い、なにを喜び、そしてなにを悲しむのか?
まあそういう風なことを考えていたわけです。

 

そしてふと思ったのです。
あのお爺さんにとってのすべての世界は、あの小さな教会のある村にすべてあるんだと。
つまり、あのお爺さんが生きるために必要な、すべてのモノとコトは、
あの世界に揃っているということを理解したわけです。
ただ、あの小さな村では、それを許容するキャパは、せいぜいあのお爺さん一人だということもね。
だからお爺さんは、あの村に存在しているんだと。
存在していることが、「すべてはここにある」を証明していると考えたわけです。
同時にそれが、僕にとって最上級クラスの「美しい状態」であると感じた瞬間でした。

 

旅から戻った僕は、もしかするともともと足元にあった家業の米屋の中に、
僕の憧れる「美しい状態」があるのではないかと考えるようになります。
そうして僕の米屋時代は、静かに始まることになるのです。

次回は、家業の中の「美しい状態」についてお話ししましょう。

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ロードムービーを見ているようなメキシコ旅だった。
Ry cooder - Paris,Texas


画像上:laguna diablo 悪魔の湖と呼ばれる乾いた湖から脱出直後のカット。
画像中:西部開拓時代はこんな感じだっただろうか。
画像下:La Paz まで150マイル手前、舗装された国道と出会う。

 

2010年10月17日 [ 4480hit ]
記憶の地平【10】
記憶の地平【10】

人前でお話しをする機会が、今月と来月そして年明けにある。お話しする内容はカミアカリをはじめ、これまでアンコメや僕自身が考えてきたアイデアやプラン、そして実際にやってきた活動のことなど。今それらを毎晩整理している最中なのだけど、整理していたら、その話しの源泉は過去の記憶にあることに気づいた。そこで、その整理がてら、このコンテンツで少し書いていこうと思う。ご迷惑かな?まあちょっとお付き合いくださいな。
 

記憶の地平【10】矛盾と混迷

 

こんな風にして、僕が「美しい状態」と感じている前家畜化時代の物体への憧れは、さらに強くなっていきます。

学校を卒業する半年前のことです。
卒業後のことを考えなくてはならない時期だったこともあり、一応、さるインダストリアルデザインの会社の就職試験を受けました。
1次試験が通り、2次試験も通り、最後に残った5人の中の1人でした。
案外優秀だったんだな。真面目にデザインすれば。
ついに重役面接なのですが、そこで僕、生意気にも、その時に思っていた「憧れ」について大出力しました。
やっちまいました。
とっても長い時間話しました。他の4人よりもね。
さんざんディスカッションした後、試験官である女性重役のお一人が、こう云うのです。
「あなたはコレが作りたいの?それともデザインがしたいの?」
そこで僕は屁理屈を云いました。
「コレが人とモノとの関係の原初の姿なんですから、これを作ることはデザインソースになると思います・・・」
すると、もう一度念を押すように同じ質問をされました。
僕は、覚悟をして、ほぼ同じような答えを云いました。
彼女は彼女以外の3人の試験官と顔を見合わせました。
結果の通知が届くより早く、その場で結果を理解しました。

 

この出来事があった後に、僕が「美しい状態」だと思う前家畜化時代の物体探しを再開し始めたのです。
その第1弾が、卒業制作でした。
これはまあ、大失敗でしたね。作為に満ちていたからです。
それでも何とか卒業はできました。というか追い出されたような感じかな。
だいたい、研究室の教授陣からは「ナマイキ」とあだ名されていたぐらいでしたから。(笑)

 

卒業後にも制作は続けました。働きながらね。
そして2回ほど人に見てもらう機会がありました。
89年秋の京都、それが僕の「作る」という行為の最後の作品となりました。
作りながら、その「作る行為」そのものに矛盾があることに、気づいたからです。
理屈をつけて作っておきながら、その作った物体を額に入れるようにして、
見せモノとしている表現に嫌気がさしたからです。

 

つまりこういうことです。
僕の憧れる「美しい状態」と感じている前家畜化時代の物体は、そもそも作られたモノではないからです。
自然界で偶然生まれた物体だったり、あるいは何かを作ろうと思って生まれた物体ではなく
トマソンのように意図せず生まれてしまった物体に対して憧れているからです。
それを作っている自分のなんと愚かしいことか・・・やんなっちゃんですね。

 

ちょうど卒業してから2年が経過していました。
そこでふと旅に出ることにしました。行ってみたいところがあったので。
その旅先である光景を目にし、その土地の老人と少しだけ身振り手振りで会話をしました。
その時、矛盾と混迷の中にから、わずかながら出口を見出したのです。

旅のはなしは次回しましょう。
_

 

モノ作りの意味するものは?
Karin krog - Meaing of love

 


画像上:「作る」行為の最後の作品。1989年秋、京都。
画像中:1988年夏、東京。
画像下:卒業制作。最低なモノだと今でも思う。あ〜恥ずかしい。

2010年10月14日 [ 3887hit ]
記憶の地平【9】
記憶の地平【9】

人前でお話しをする機会が、今月と来月そして年明けにある。お話しする内容はカミアカリをはじめ、これまでアンコメや僕自身が考えてきたアイデアやプラン、そして実際にやってきた活動のことなど。今それらを毎晩整理している最中なのだけど、整理していたら、その話しの源泉は過去の記憶にあることに気づいた。そこで、その整理がてら、このコンテンツで少し書いていこうと思う。ご迷惑かな?まあちょっとお付き合いくださいな。

 

記憶の地平【9】4本足の物体。

 

今でこそ「美しい状態」についての想いを、前回まで述べてきたように語ることができますが、87年当時は、まだそれを上手く説明することができませんでした。
おぼろげながらもそこに存在するけれど、どうしたらその状態を、「ほら、こうでしょ。」と、他者に見せることができるのか、僕なりのその方法が見つかりませんでした。
唯一できるのが、なにかを作るコトと、その作ったモノのことを、言葉で説明することだけでした。とはいいつつ、20歳代前半の僕には、その両方はあまりにも未熟でした。
後にそれらは、矛盾だと気づくことになるのですが、当時の僕は作ることしか術ないと、どこかクソ真面目に考えていたように記憶しています。

 

そんな気分の最中、所属する工芸科工房の指向性とは明らかに異なることは肌で感じつつ、この作品を作りました87年9月のことです。学校が休みの間に、奥多摩へ行き、間伐材を分けてもらい作った作品です。

この作品では、家具という概念が生まれる前夜の姿。
強烈に憧れを抱いていた前家畜化時代のそれをテーマに、答え探しをしました。
何の設計も一切のデザインニングもなしに、目の前の木に向かい、気の向くまま、手の動くままに出てきた造形でした。

当時のスケッチブックには、こう書かれています。

 

ある者は、それを見る。
ある者は、そこに寄りかかる。
ある者は、そこに寝そべる。
ある者は、そこで食べる。
またある者は、そこで遊び、そして語らう。

 

当時の僕には、この物体に集まってくる様々な人が見えていました。
その人達は、この物体に対して、自らの肉体をその物体に合わせることで、様々な関わりを、試し、また探している風に見えたのです。
ですから、物体の形体や形状がどんな姿だろうが、まあどうでも良かったわけです。
問題は、その物体に対して、どのように人が関わるか?そこにのみポイントがあったわけです。

 

作品が完成すると、学部教授人全員の前でプレゼンテーションするのですが、そのために作品を講評会場へ搬入していて驚くべきことに気づいたのです。
なんとこの物体は4本足だったのです。
製作中そんな雑念は一切なしで作ったにも関わらず、この物体は地表に接する点が4ケ所あったのです。

僕はその時、言葉を失いました。
「原初の姿は、最初から4本足だったのだろうか?いや違うはずだ。」
と思っていたにも関わらず、無意識で作ったそれは、皮肉にも違うはずの姿が、そこにあったというわけです。

__

 

いよいよ矛盾と混迷に入り込みます。ご一緒いただけますか?
Pat metheny group - Are you going with me?

 

2010年10月14日 [ 3768hit ]
記憶の地平【8】
記憶の地平【8】

人前でお話しをする機会が、今月と来月そして年明けにある。お話しする内容はカミアカリをはじめ、これまでアンコメや僕自身が考えてきたアイデアやプラン、そして実際にやってきた活動のことなど。今それらを毎晩整理している最中なのだけど、整理していたら、その話しの源泉は過去の記憶にあることに気づいた。そこで、その整理がてら、このコンテンツで少し書いていこうと思う。ご迷惑かな?まあちょっとお付き合いくださいな。

 

記憶の地平【8】先人達の発見。

 

美術に興味ない人でも80年代はじめに記憶があるんじゃないかな。
「トマソン」。
建築物や、不動産の一部に残存した「無用の長物」。
そのシンボリックな姿を芸術として捉えることを発見したことから始まったムーブメント。
発見者は、あの赤瀬川原平氏。「老人力」のベストセラーで有名なあの方ですね。
たぶん赤瀬川氏以外でも、このような姿の物体を面白いと思い、気づいていた人はいたと思いますが、これを、トマソンと命名して、芸術として定義づけるまでに導いた人はこの方以外にはいなかったように思います。
そのトマソンとして最初期に確認された有名な物体としては「四谷の純粋階段」「江古田の無用窓口」なんかかな。
じつは高校時分に通学路上にそういう物体を発見した僕自身も、なんだかやけに萌えたことを覚えているから、皆さんの中にも、似たような経験を持つ方もあるかと思います。

 

さて、そのトマソンという名の由来を説明しておいたほうが良いですね。
それは巨人の4番打者にも関わらず三振が代名詞となった大リーガー、ゲーリートマソンの仕事っぷりが美しく残された無用の長物の概念にぴったりだったことに由来するんです。
この辺りセンスが赤瀬川節って感じですね。大好きです。

 

このように、対象となるモノを異なる角度で捉えることで、新たな価値が発見されていく様は、僕が感じている見立てることで生まれる「美しい状態」と質的には同じことのように感じます。

 

また、時代はさらに遡り大正の頃、柳宗悦らよる民芸運動もまた、僕の目にはそう見えてきます。
無名の工人や民衆が作る日用の道具や雑器の中に、用の美を発見し芸術として捉えていくムーブメントでした。
そうそう忘れちゃいけません。
その民芸運動のルーツがありました。
産業革命後のイギリスで起こったアーツアンドクラフト運動。ウィリアムモリスですな。
産業革命によって失われていく手仕事の美を再生しようというムーブメントです。
これは後に、20世紀のモダンデザインの源泉にもなっていくわけだから、物凄く画期的なことだったわけです。

 

これらに共通する点は、作り手に美しいモノを作ろうという作為がないけど、なんだか美しい。この感じですね。
それを見立てるという行為によって生まれるのが、僕が最も興味を持っている「美しい状態」への意識です。

 

このように、時代も対象となるモノの違いこそあれ、広い世界感を持ち、旺盛な探究心で新たな地平を築き、芸術までに高めた人達がいるのです。

とは云っても、赤瀬川さん、柳さん、モリスさんは、こう云うかもしれませんね。
「ちッちッちッ・・・そうじゃねーだろ、わかってねーな」って。
まあ、とにもかくにも彼ら先人達のそうした発見は、僕にとっての大いなる指針であることは間違いない事実。
既成概念に捕らわれることなく広い視野で対象を捉えることを当時再認識させてくれました。
感謝しているわけであります。
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トマソン本を久々に広げてみた。聞きたくなった。
YMO - CUE   HAS - CUE

2010年10月13日 [ 4217hit ]
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