執筆者プロフィール 白鳥和也 1960年静岡県生まれ。小説家・エッセイスト・自転車文学研究室主宰。最近、念願の小説本『丘の上の小さな街で 白鳥和也自転車小説集』(えい出版社・えい文庫)を上梓。そのほか著書は『自転車依存症』『素晴らしき自転車の旅』(以上平凡社)』など。自転車の旅と書物と米のご飯をこよなく愛する中年男。 自転車文学研究室ブログ |
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其の一〇 新発売の自転車弁当
今回は出だしから手前の宣伝で恐縮なのでありますが、こんど、新しいエッセイ集の出版にこぎつけることができたのだ。『自転車依存症』というタイトルで、版元はお世話になっている平凡社。私としては初めてのハードカバーで、やっぱりさすがにうれしい。
この本、タイトルから察せられるように、自転車道楽のお馬鹿ぶりを回りの仲間や自分を引き合いに出して、それはまあいろいろ、書かせてもらっている。断言はせぬものの、この本を読まれるとさらにシュミの度合いが進む可能性が高いので、要注意である。
それはともかく、今回は単行本だから表紙のデザインもかなり自由度があるということで、表紙カバー用の写真も自分で撮らせていただいた。
自作を解説する愚は重々承知の上だけど、このエッセイのテーマと意外にも無縁ではなかったので、少し書かせていただく。
写真はまあごらんの通り。さるところで入手した廉価なコレクションボックスに、旧い自転車パーツを中心に、本の内容とそれなりに関係のある物体をあれこれ詰め込んである。もちろん私も好きなものなので、選んで、並べて、眺めて、くふふ、という感じである。
で、表紙が実際に仕上がってくる前に、ある人に写真を見てもらったら、非常に気に入ってもらえて気を良くしたわけだが、ひと言、実に鋭い指摘も頂戴した。
これ、幕の内弁当と同じデザイン感覚だよね。
その人は、さる有名なアーチストが言ったらしい言葉を引いてそう教えてくれたのだが、
その言葉というのは、どうやら、幕の内弁当を構成するような美的感覚というのは日本人独自のもので、世界的にも類をみない、ということなのだそうだ。
これには私も唸らざるを得なかった。そうだったのか、それであれこれつまんで箱の中に入れるのに、一種興奮に近いものを感じていたのか。
どうもそれは、愛玩物を並べるという行為とそれを写真に撮るという行為のほかに、なにかしら別のものも加わっていたらしい。美的感覚といえばそれは格好いいけれど、私の場合、それはもう少し別のものだったのかもしれない。
そのひとつはたぶん、食欲なのだ。デザイン感覚という別のものに置き換えられた、食欲なのだ。
だいたい私は、この『飯稲記』の「其の六」で、次のように書いているのだ。
「しかし弁当というものは、日本文化の美意識のある部分を、実にうまく自然に表現しているのではないかとつくづく思う。梅と白飯の紅白を日の丸に見立てることはもとより、飯とおかずのバランス、おかずの彩りとその配置、季節感の表出、等々。そう意識されていなくても、そこにはちゃんとデザインがあった。」
自分でそう書いておきながら、コレクションボックスを相手に弁当的オブジェをにやにやしながら作っている最中には、そのことの意味が分かっていなかった。私は、自分でも気付かずに、自転車部品弁当を作っていたのであった。
あえて脱線するが、人生はそういうことの連続でもある。得意になっていろんなことをやらかしていても、自分にはその意味はさっぱり分かっていなかったなんてこと、よくある。自分ほど見えにくいものはない。
しかし中年男が弁当づくりに熱中する図というのも、われながら実に滑稽である。よく見ると赤い色がけっこう入っているが、これは無意識下で梅干しの記憶が信号を出していた可能性が高い。あるいは食紅を使ったウインナーの記憶か。
それにしても、弁当というのは、箱の文化と、米食の文化が融合した稀有なものであろう。箱というものは、誰にとっても永遠の憧憬の象徴でもある。
だからこそ、古今東西の伝説やファンタジーや物語にかくも多くの箱が登場してくるのだ。
私にとって最も印象的な箱のひとつは、ウイリアム・ギブソンのサイバーパンクSF『カウント・ゼロ』(黒丸尚訳 ハヤカワ文庫)に登場する、一種のコラージュだ。強いて言えば、このSF作品そのものが、多くの文化的断片の寄せ集めから成っているのだけれど、それが「箱」の一点に収斂している感じがある。引用したい一文があるが、やめておく。読んでくれる人のために。
この連載を続けさせてもらって気が付いたことがひとつあるのだけれど、主食としての飯というものは、やはりパンとは大きく異なる面がある。
形態の自由さというのがそのひとつだろう。握り飯や寿司のように自立的な形もとれれば、茶碗や丼のような食器に載せることも当然あるし、餅や煎餅のように別形態とすることもできる。そして、箱の中に収めることもできるわけだ。
案外、主食として、これだけ多様な形態を取り得るものは、世界的に見ても少ないのかもしれない。そしてそのことは、われわれ日本人の性向に根ざしているのかもしれない。
別に小難しく考えるつもりもないけれど、こと食いものに関しては、われわれは他国のものを日本流のものにしてしまうのが異様なくらいうまい。横文字の料理だって、たいがいのものは、実は日本で食べた方がよほど口に合っていたと多くの人が言う。
なにもそれは料理だけじゃなくて、技術だってそうだろう。基礎研究よりも応用の方で成果を挙げてきたのは、この国の過去を調べるといよいよ明らかになる。国産の最初期の蒸気船のひとつだって、ほとんど図面の情報だけで造り上げられたらしいし。
自転車だってそうだ。ランドナーという車種も、ことフレームの仕上げに関しては、本家フランスの有名なアトリエよりも、そのスタイルを真似た日本のクラフツマンの方がはるかに上手な部分があった。そんなわけで、フランスでランドナーが衰退したあとも、わが国ではまだ熱狂的なファンがずいぶんと生き残っているのである。
だから、もし稲作が日本列島に輸入されたものだとすれば、日本料理の原型と思われている幾多の米飯のありようも、もしかしたら、われわれの祖先が考え出した変奏のいくつかなのかもしれない、と思ったりする。
実はわれわれが愛する米飯の本質は、米飯自体のなかにあるというよりは、もともと別の文化なり文明なりに由来するものをいつのまにか違うものに造り変え、しかしそうすることで、オリジナルなものの中に含まれていた本質のひとつをかえって明らかにするという、われわれの風変わりな民族性に強く関連しているのかもしれない。
( 【飯稲記】白鳥和也さん )