其の一二 伊那谷の米の道

2010/1/27 16:33 投稿者:  yhonda
 長野県には伊那谷と呼ばれる地域がある。谷だけれど、実際は盆地に近い。大雑把に言うと、天竜川流域の辰野から飯田にかけての一帯で、けっこう開けていて、人口も少なくない。街としては、北から順に、伊那、駒ヶ根、飯田が名の通ったところだ。
 
 伊那谷の東と西には、これに平行するように深い谷間が二つある。ひとつは、東側に当る秋葉街道の谷間だ。中央構造線が形成したこの谷は、天竜川のように一本の河川が流れるのではなくて、南北方向で二つほど高い峠を持つ。従って川も何本か縦に連なる。
 
 西側の深い谷間は、木曾だ。これも途中に分水嶺をひとつ持つが、秋葉街道=中央構造線よりは、もう少し単純なかたちとなっている。しかしこちらも山は深い。木曽路はすべて山の中である、という島崎藤村の一文はあまりにも有名だ。
 
 伊那谷には、国鉄時代から飯田線が通い、中央自動車道が走っている。かつての塩の道のひとつでもある三州街道、伊那街道の果たしてきた役割は、現在、物流路として主に高速道路に受け継がれていると言っていいだろう。
 
 木曾には、高速道路はないものの、トラックの通行量の多い国道一六号線があり、鉄道路線としては、複線の中央西線が通い、鉄道的には伊那谷よりも輸送力は大きい。中京、関西から信越方面へ向かう特急は木曾を通る。
 
 秋葉街道=中央構造線には、鉄道はなく、国道もまだ全通していない。峠を越える道はほとんど林道同様であり、冬季は凍結のため閉鎖され、事実上街道は分断される。人口も非常に少ない。
 
 こういう地理的条件などもあって、農業生産的に最も豊かなのはやはり天竜川沿いの伊那谷である。そのなかの飯田というところに、私はこの一年ほど通いつめており、もはや第二の故郷と言うか、自分の精神的、心魂的故郷と言うべきところになっている。
 
 

 
 で、あるときふと気付いてみたら、飯田という地名、まさに「飯」と「田」なのである。訪れると誰でもわかるが、飯田は構造盆地として開けた伊那谷の南端近くにあり、ここから南方は深き山の中となる。
 
 さる人の言葉を借りれば、そんなところに、まさに中世の古城のように静かに、飯田の街は佇んでいる。そう言ってはなんだが、この谷の果てによくぞこれだけの城下町ができたものだという感もある。
 
 飯田は古くから、街道の集まる地だった。三州街道、秋葉街道(飯田へと繋がる支線的街道筋がある)という縦の街道のほか、木曾の中仙道と峠越えで結ぶ横の街道、大平街道もある。山都ながら、交易や文化や交通の結節点であったのだ。
 
 だから人形浄瑠璃に代表される京の文化も入り、一九四七年の大火で市街地の大半が焼け落ちるまでは、伊那の小京都と呼ばれるほどの美しい町並みを誇った。それを作り上げたのは、物腰が穏やかで人にやさしく、なおかつ芯は強い町衆の文化だったようだ。
 
 
 
 飯田の地名は、一説に、農村の共同体での共同作業、すなわち「結い」と、「田」が連なっているということらしいけれど、街道筋がいくつも結びついていることなども、縁のないことではないのかもしれない。
 
 飯田から木曾へ続く大平街道は、現在でも冬季閉鎖となる厳しい道で、その様子は島崎藤村の『夜明け前』にもしばしば描かれている。大平峠を下ってからも、街道が中仙道に出会うまでは、なおかなりの距離を行かねばならない。
 
 その間、道筋の傍らにある水田は決して多くの収量をもたらすものでないことは、誰の目にも知れる。中仙道に出ても、馬籠から北の木曽路は、「すべて山の中である」からして、豊かさのひとつの指標であった米の生産量はごく限られていただろう。
 
 それに比べれば、飯田でははるかに多くの米が収穫されていたことは間違いない。飯田は一般にりんごの産地として有名であるが、飯田を中心とする下伊那地域は、ほとんどが河岸段丘上という平地の少ない地勢であるにもかかわらず、かなりの水田がある。
 
 伊那谷の北半分は、上伊那と呼ばれるが、上伊那の米を木曾に運ぶために開削された街道がある。サイクリストにも有名な、権兵衛街道だ。木曾の古畑権兵衛という人が難儀の末に開き、その名が残されているのだ。
 
 権兵衛街道と呼ばれる国道361号線には、最近トンネルができて、ようやく冬季閉鎖がなくなったらしい。それでも伊那谷で雪が降っているときや冷え込んでいるときにはやはり気を使うだろう。中央アルプスの北端を横切る峠道なのだから。
 
 

 
 今日、あたりまえのように見えている水田や道路や、水田を潤す水路も、古来あたりまえの事実としてそこにあったのではなく、先人たちの夥しい努力と、一生を引換えにしたような労苦の果てに築き上げられたものであることが、実は大半なのだ。
 
 昨年の晩秋、十一月の頭に、自転車の旅の仲間とともに、辰野からほぼ天竜川沿いに飯田に下って泊り、翌日は峠越えで木曾に抜け、さらに一泊するという旅をした。そのとき、私は、普通のルートからはちょっと外れたところに寄り道する案内をした。
 
 東春近の原新田というところである。もう十二年近く前に、たまたまツーリングで入り込んだところで、三峰川のと天竜川が合流する付近の河岸段丘上に、伊那谷としてはとても広い水田が開けているところだ。
 
 そこには水田の中、ちょっとした塚があり、ささやかな祠があり、広場と数本の樹木がある。一度夏の日に訪れたことが忘れられず、この付近を通るときはたいがい、寄る。その日も同じで、仲間を連れて立ち寄り、しばらく休憩したりしたのだった。
 
 この場所は、私にとって、木曾や秋葉街道と比べてはるかに豊かな伊那谷の稲作を象徴するものであった。また、地名から類推されるように、木曽駒ケ岳の馬の姿をした雪形によって農の暦とするという逸話が最も似合うところだと思っていた。
 
 そしてこの一文を書くために、私は、いくつかの言葉を選んで、ネット上で検索した。するとあるサイトには、まさにその場所から、駒ケ岳の雪形を見た写真までが掲載されており、私は息を呑んだ。しかしそれ以上に考えさせられる資料もそこに示されていた。
 
 その「豊かな水田」を開くために、数世紀にわたって、村人が水路の確保に甚大な努力を重ねてきたのだった。豊かさは、はじめからそこにあったのではなくて、先人が生涯と引換えに遺してきたものでもあったのだ。そこを訪れて十数年の後に私はそれを知った。
 
 米のとれないところに米を運ぶための道、米のとれなかったところを、米のとれるところに変えた水の道。この地上にある、ありとあらゆる道の姿の根源は、消えていった先人たちの生の証でもある。しかも彼らは、私たちにその道の使用料を求めるわけではない。
 
 先人たちが去っていったように、われわれもいずれ、この地上を去る。財産や名誉や仕事を残すのも大したことなのかもしれないが、それは、われわれが知らず踏んでゆき、知らずその恩恵に預かっている、道や水路には遠く及ばないのかもしれない。
(C)Kazuya Shiratori
(C)Kazuya Shiratori