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記憶の地平【16】

 

人前でお話しをする機会が今月と来月そして年明けにある。お話しする内容はカミアカリをはじめ、これまでアンコメや僕自身が考えてきたアイデアやプラン、そして実際にやってきた活動のことなど。今それらを毎晩整理している最中なのだけど、整理していたら、その話しの源泉は過去の記憶にあることに気づいた。そこで、その整理がてら、このコンテンツで少し書いていこうと思う。ご迷惑かな?まあちょっとお付き合いくださいな。

記憶の地平【16】鏡 Sarabande

カミアカリって名前、どういう意味?と、よく聞かれる。そういえば一昨日も聞かれた。カミはカミサマ。それも稲のカミサマ。稲のカミサマは、稲作をしている人、米に関わる人、つまり松下や僕のような人の心の状態のこと。信頼しているけど甘えられない。そして何があっても受け入れる。そういう心の状態をあえて稲のカミサマと呼ぶことにした。
 
アカリは、明という文字をアカリと訓読みしたもの。この稲の発見者、松下明弘の「明」から一字とった。その一字を使ったことにも、じつは意味がある。松下の「松」、明弘の「明」これを並べると、松明(たいまつ)となる。一年の収穫に感謝するお祭り、伊勢神宮の神嘗祭では漆黒の闇の中、松明が燃える明りのもと、その神事が執り行われる。その光景を目の当たりにした僕は直感的に思ったことがあった。松下明弘という男は、稲に祝福され、また稲を祝福する存在だと。だから、この特異稀な突然変異を視界の隅に捉えることができたのだと。これが巨大胚芽米「カミアカリ」。その名の由来です。
 
松下から初めてカミアカリのことを聞かされたのはプロジェクトの最初の年、2001年の秋だった。初めて見るその不思議な米粒を見ながらこう思った。この列島で2000年以上繰り広げられて来た稲の歴史。その一頁に立ち会っていると。同時にもの凄く恐くなった。それは、これを世に出すためには、よほど周到で綿密な計画を立てないと、あっという間に何もかにもが消えてなくなる。興味本位、儲け主義、不勉強、スペック競争、ずさんな扱い、こんなキーワードが、すぐ浮かんだ。これまで数多の新品種が生まれ消えていった背景には、つねにそれらがあることを遠目で見てきた僕には、この稲もそうなってしまうかもしれないと危惧したわけです。また僕のその怖さは、遠目で見ている選択肢ないこと。つまり当事者になることへの恐れであったと記憶しています。

カミアカリが健全に育つためには、守る何かを準備しなければならいと直感的に感じました。しかし単純にルールを作れば良いという問題では解決できそうにないとも思いました。それにそのやり方は、どうも僕らの生き方、モノの捉え方にそぐわない感じがありました。では、どうするべきなのか?この件について松下と散々ディスカッションしました。それでも松下は僕が危惧している事の意味が、当時まだよく判らなかったようでした。そしてとうとう、この稲を世に出さなければならない2006年、茨城へ共に旅した車中、嫌ってほど話し、話し疲れた先にささやかなアイデアが生まれました。それが、カミアカリの勉強会を作ることでした。

そこでは「カミアカリとはこういうモノだ!」という明確な概念を作ること。その概念を、きちんと説明できるようにすること。そして、カミアカリに関わる人(作る人、商う人、食べる人)が個々の利害を超え、一つの流れとなって新たな価値を紡ぐ場にすること。そしてまた、彼ら三位にとってカミアカリが彼ら自信の表現手段となること。つまりカミアカリを作ること、商うこと、食べることが、ゴールではなく個々が持つ何かを導き出すための道具としてカミアカリを使うこと。それがカミアカリドリーム勉強会の仕事だと考え、その中にこれまで松下と僕の中にあった好奇心や探究心から生まれる使命感みたいなものをアイデアとして仕込んだわけです。あえて「ドリーム」というややカルト臭い名前をつけたのは、夢を描くという意味に捉える方が多いと思いますが「夢を発掘する」という意味を持たせています。すでにカミアカリの中に多様で豊富な価値がある。その価値を三位が一体となって発掘するというイメージです。つまりあらゆる角度から発掘し、まだ見ぬ価値を見つける。まあそういう壮大なことを夢想したわけです。このアイデアが生まれるには理由がありました。それはカミアカリの持っている他の米にないキャラクター。僕はそれが武器になると感じたからです。それはつまり「鏡」です。難解ですね。解説します。

カミアカリはその特徴である大きな胚芽(通常の3倍余)があります。一般に米は精白米にして食べるのが主流ですが、カミアカリを精米すると、その最大の魅力である胚芽を取り去ってしまうことになります。これはもったいないことですね。つまりカミアカリは、玄米で食べることを宿命付けられていたわけです。玄米で食べると白米で食べるよりも明確に現れるものがあります。思い出してください。それが「野趣」です。松下のお米が持つ飼いならされてないことで生まれる風味風合いのこと。稲が生きるため、子孫を残すために必死な状態にある時にまとうことになるモノです。カミアカリは、その野趣を一般のうるち米品種の玄米よりも、より洗練されたイメージで現れていたのです。その理由は定かではありません。しかし巨大胚芽の小気味よい食感と共に、言葉を変えれば「米らしからぬ」その独自な風味風合い中に野趣を雄弁に語ることができる素養をすでに持ち合わせていたのです。

そこで僕はこう考えました。野趣を雄弁に語ることができるのであれば、地域の風土や歴史、人の技や思い、そのようなそこにしかないモノも、きっと雄弁に語るはずだと。つまりカミアカリは「鏡」のような存在だと思ったわけです。鏡はご存知のとおり、物の姿をそのまま映すことができます。カミアカリを食べた時、その風味風合いの中に、それが生まれた地域の風土や歴史、人の技や思いが鮮明に再現されるはずだと。事実その後、3つの異なる地域の異なる生産家がカミアカリを栽培しました。その3つのカミアカリは僕が想像したとおり、異なる風味風合い、野趣をまとっていたのです。

以前読んだことのある本の一説を思い出します。

「あるコーヒーは栽培地の周辺にある森の匂いをまとっている。つまり、その根が吸い込んだ水の味、その木の近くになっていた果実の香り・・・コーヒーは、それを味わう人を、そのコーヒーが育った土地へ連れて行ってくれる・・・」
(コーヒージャーナリスト)

「かつてニッポンの駅には、そこへ降り立つと、それぞれに異なる匂いがあった」
(黒澤明の随筆どこか:こんなニュアンスだったと思う)

ノスタルジー、多様性、個性・・・そういう言葉を安易に使いたくない。正直云うと書くことも好まない。書けば書くほど本質から乖離し、その文字と音が陳腐に思えるから。その僕が、それらを「使わず」に、あるいは「作る」行為をせず、意図せず雄弁に表現してくれたのが、松下が発見したこの米、カミアカリでした。

想像のレンジがほんの僅か広い木こりの仕事で、意図せず生まれた切り株。その何とも云えなく素敵な佇まいが、通りがかりの旅人を誘うのです。「ここに腰掛けると、解ることが見つかるよ」。僕にとっての切り株は、この「カミアカリ」だったというわけです。
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あと残り2曲となりました。
Bach cello suite No.6 Sarabande

2010年10月26日 [ 4258hit ]
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