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水田徘徊2017 福島会津喜多方の菅井さん

 

奥久慈大子町の大久保さんの続き。(今回は長いです)

大子町の夜(8月26日)は、お酒の量に比例して与太話も増えつつ更けていった。翌朝、大久保さんのところで自慢の飯をたらふくいただいてから次の水田徘徊へ旅だった。松下さんとはここで別れ、長野県の佐久からやって来た黒田くんの軽トラに乗り換えた。目指すは福島県の会津で有機米を栽培している菅井さん、田んぼは会津地方の最北地、喜多方市熱塩加納町。下道&軽トラ、ヒッチハイクのような旅に興奮しつつ出発した。道中は休憩を含め5時間ほど、奥久慈から会津までの道程は当然のことながら田んぼ!田んぼ!田んぼ!そんな景色を眺めつつ、狭いキャビンの中で話しに華が咲く、そのほとんどは僕が最近気になっていることを、年齢差20年、30代の黒田くんがどう思うかについて質問することからはじまった。

興味を持った人なら技のあるなしに関わらず稲を育てることができて、質や量も細かいこと言わなければ米にはなるよね。農薬や肥料がなくてもで地力と水と太陽さえ照ってくれさえすれば米は生まれるでしょ。そういう米と松下さん、大久保さん、菅井さんが生業として栽培してできた玄人の米が、今、同じ地平で語られたり、評価されたりしてることに、僕は何というか居心地がよくない感じがするんだ・・・とはいえ、考えてみれば、この20年僕が追求してきた価値の発見と創造には、このような素人的というかプリミティブな発想によって紡いできた気もしているんだ。つまりカミアカリの栽培理念には、このエッセンスを忍ばせていることは僕がいちばん知ってること。紛れもない事実なんだよ。これをどう考えたらいいだろうか?ただたんに年を取って頑固になっただけのことなんだろうか・・・?


<黒田くんの答え:後日聴取>
松下さんや菅井さん大久保さんらの玄人の米との違いは、カルピスの濃度の違いと似ていると思います。彼らの米が100倍濃縮の原液だったら、素人的に感じる米(以後、便宜的に素人米と呼ぶ)が、5倍濃縮の原液ぐらいだとします。それらの米が、ネットなどで体裁を整えて発信している相手は5倍濃縮を5倍に薄めてちょうど飲みやすいと感じるお客さんだとすると、玄人たちの米を同じユーザーに伝えるためには100倍で薄める必要があって、そういう意味では薄まった状態では同じ土俵で語られることもあるかと思います。ただ、例えばアンコメさんに来るお客さんは、玄人たちの米を100倍に薄めたら物足りなくて、10倍くらいに薄めたらちょうどいいと感じるお客さんだとすると、素人米の5倍濃縮のカルピスだと原液のままでも物足りないと感じると思います。なので、玄人たちの米と素人米は根本的に同じ土俵にはいないんだけども伝える対象によっては対象に合わせて薄めるので、同じように見えるけど、もとは違うと思います。もちろん100倍濃縮の原液を扱うには、それ相応の知識が必要で、長坂さんには取扱いが出来ても、若手には取扱いできないというような代物かもしれません。長坂さんが居心地が悪いと感じる理由は、先人が育てた果実を収奪するような行為を若手がしているからでしょうか。かくいう僕もそうかもしれないですが、うまく人に伝えるところだけ技術革新によってレベルアップしているので、器用にテクノロジーを駆使して、技術のともなわない(先人の手間暇を踏み越えて)栽培をしているからでしょうか。長坂さんのやってきたことは、先人のやってきた歴史を紐解いていく作業なのかなと思いましたが、若手のやってることは歴史を無視してやってるからでしょうか。あとは、原液をどれくらい薄めるかで評価されたり、売れたりする対象も変わってくると思います。原液の濃さが必ずしも評価とか売り上げにつながるわけではないとか・・・。


喜多方で遅い昼食をラーメンですませ、菅井さんのところへ着いたのが午後3時、とにもかくにも田んぼへ行った。もちろんカミアカリが気になってしかたがなかったからだ。一枚が3反の田んぼが4枚がカミアカリの田んぼ。2年ぶりに見る稲の姿は初めてここを訪ねた2005年の日のことを思い出した。すべての稲が揃っていて、一点の曇りなく精緻で静かな佇まい。栽培方法がどうであるかより、田んぼが平らがしっかりとれていること、その基本がしっかりしているからこそ、すべての作業が活きてくる。冬の長いこの地、田んぼで作業ができる時間は限られているにも関わらず、やるべきことをやっている。そういう見えない仕事っぷりがこの時期の稲の姿に現れる。ここ数年の食味評価の高さの背景には、こうした不断の努力があるのだ。

黒田くんと会話する菅井さんはいつになく先輩口調、それを少し離れたところで聴きながら写真撮影に精を出す。ここの除草体系は紙マルチ、4月でもどうかすると雪が降るこの土地では、藤枝の松下さんのように何度も代掻きをして草の個体数を減らす作業はできない。そこで菅井さんはロール状の紙を敷きながら田植えする方法(マルチ)によって初期雑草の抑草をはかり有機栽培を実現している。草対策はこれで良いとしても、温暖な会津盆地とはいえ、熱塩加納町は北の奥座敷、盆地を陸上競技場に例えるなら、アリーナではなくスタンド席の最上段。つまり気温が低く日照時間も限られるところ。たびたび冷害に悩まされるところなのだ。戦後入植した初代のお爺さんによれば、この地に20軒入植するも残ったのは菅井さんを含めわずか2軒だったというから、当時としては相当に過酷な土地だった。それ故にお爺さんたちは農閑期は出稼ぎに出たという話を晩年にお聞きしたことがあった。つまりこの土地は、昨夜味一での話題となった「よい場所」では、けっしてなかったということだ。しかし菅井家は代を重ねながら、その土地を「よい場所」に変えてきた。正確には良し悪しに関わらず、すべてを引き受けその土地でしかできない稲作を発見創造してきたのではないかと思っている。カミアカリに現れる、あのほかでは味わえない木の実を思わせるような深い風味を味わう時にそれを思うのだ。

日が沈み、ビール片手に菅井さんがぽつりと言った。「長坂さん『自然栽培』ってどう思いますか?」それを聞きなんとタイムリーなことかと内心思った。昼間、軽トラで黒田くんと話したことの中に、この四文字が少なからず関係していたからだ。「気分や姿勢としては理解できる。けれど、そもそも日本語として誤りがあるよね。だって自然と栽培は相反する出来事だもんね・・・」と答えてから、菅井さんの言いたいことは、たぶん僕がここのところ感じていることと、ほぼ同じことだと承知した。つまりこの過酷な土地で代を重ねながら稲の生命生理を尊重しつつ、人が生き抜く術を研いてきた者たちが生み出した米と、ある日やって来た彼らが言うところの自然栽培なる過程で生まれた米が、同じ地平で語られることの居心地の悪さのことだ。

かなり大雑把だがこの国の稲作の歴史とはこんなものだったと承知している。田んぼは土木工事によって稲専用に栽培を目的として人工的に作られたもの。古代においては容易に平らを作るために小さな田んぼだった。肥料というアイデアもない頃は休耕することで地力が回復することに気付いた。太閤検地によって圃場に課税されるようになってから毎年同じ田んぼで一粒でも多く実るよう栽培するために、他からエネルギーを補充する技術、つまり肥料というアイデアが本格化したらしい。国力が石高の時代は新田開発のために、列島の隅々まで山を穿ち川の流れを変えた。第一次世界大戦の頃、爆弾を作る過程で窒素固定の技術が進み化学肥料が生まれる。これによって収量は飛躍的に増え、同時に人類は爆発的な人口増加を果たした。それらを同時に支えたのも近代科学が生んだ農薬だった。近代科学が生んだ打ち出の小づちみたいな農の背後で、様々な問題がこの国に露呈し始めたのは高度成長期、そのアンチテーゼとして、農薬、化学肥料以前にあった農への回帰だった。後にそれは有機農業と呼ばれ今に続いている。菅井家はその時代に先進的に有機稲作へ回帰した人たちのひとりだった。

農家でなくても農ができる時代。いわば農が民主化されたような今、様々な場所で様々な過程によって米が生まれている。そのどれもが米であって、たべものとして同じ地平にある。玄人か素人の別はない。けれど本物か本物でないかの洗礼は受けざるを得ない。今回の旅はこのことについて考えるよい機会だった。まだ答えらしい答えは導き出せないでいる。11月に行うカミアカリドリーム勉強会ではこれをテーマにしようと考えている。立場や世代を超えていろんな意見を聞いてみたいと思っている。
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画像上:29年産菅井カミアカリは身体を作る期間中の日照不足から茎数が少ない、それと若干いもち病の心配も出てきている。収量は計画よりは減ってしまいそうだ。ここから45日間の天気が米質を決める。ただ祈るのみ。
画像中:この景色を初めて見たのは2005年のこと。この精緻な田んぼを見て、あの松下さんが絶句していたことを昨日のことのように思い出される。人の仕事が極まると神々しさを纏うことをここで知った。
画像下:黒田くんの軽トラでは、いろんなジャンルの話をした。どちらかと言えば愚痴を聞いてもらった感もあり。でも楽しかった。彼のブログでもこの日のことが書いてあったのでご紹介します。
がんも農場日誌:日本はたんぼばかりです。

2017年09月16日 [ 459hit ]
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