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執筆者プロフィール

白鳥和也

1960年静岡県生まれ。小説家・エッセイスト・自転車文学研究室主宰。
最近、念願の小説本『丘の上の小さな街で 白鳥和也自転車小説集』(えい出版社・えい文庫)を上梓。そのほか著書は『自転車依存症』『素晴らしき自転車の旅』(以上平凡社)』など。自転車の旅と書物と米のご飯をこよなく愛する中年男。
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目次
其の五 大飯食らいの伝説
(C)Kazuya Shiratori
(C)Kazuya Shiratori

  学生の頃、中央線沿線の国立というところに住んでいた。こくりつ、じゃなくて、くにたち、と読むのだ。昔はここに国立音楽大学という、その世界ではなかなか名門の私立大学のキャンバスがあった。何も知らなかった昔の私は、新聞の「私立大学応募状況」とかいう類の欄に、その大学の名前が出ているのを見て、なんで私学なのに国立なんだ?と思ったのである。

 
 しかしそれから数年後に、私はその街で四畳半のアパートを借りることになった。合格して通うことになった大学は新宿区であったのに、田舎育ちであったため、畑や空地や原っぱというものがほとんどない23区内には到底暮らせないと思ったのだ。今考えれば、あの頃の東京には、まだいくらかそういうものの痕跡が残ってはいたのだが、当時はやはり都市の過密というものに相当恐れをなしていたのであった。
 
 紹介してもらって目星をつけた国立のアパートを訪ねるのに中央線に乗った。三鷹を過ぎるとようやく、家並みの間に、地方都市に少し似たような風景がぽつりぽつり見え始めて、内心ほっとした。国分寺あたりまで来ると、駅の構内もすかすかで、ヤードの広い、貨物取扱いのある地方駅みたいだった。いや、1979年頃の話ですがね。
 
 そして降り立った国立の駅前には、高いビルもなく、その割に開けた広い通りと、なかなかいい感じの街路樹があった。ああここなら俺でも暮らせると思った。部屋は広いとはいえなかったけれどなにしろ格安で、共同の風呂もあったし、大家さんもやさしい感じの人だったこともあり、すぐに決めさせてもらった。
 
 そうして住み始めてはみたものの、一年間は国立に親しい友人もいなかった。一人で飯を食うのは寂しいものであるということを生まれて初めて知った。
 
 翌年の春になって、駅とアパートの間にセンスの良いカフェが店開きした。そこに足しげく通うようになって、国立でようやく知り合いができた。カフェにしては遅くまでやっている店だったので、学生身分としては当然のことながら、夜中に出歩くことが多くなった。
 
 それと前後して、カフェのある通りの外れの方に、風変わりなラーメン屋を見つけた。たまたま大学の友人が私のアパートに来てくれたときに、夜中に飯が食えるところを探していて行き当たった。
 
 当時の私は、食事と言えば飯があるのが当然で、ラーメン屋に入っても、飯系のものを頼むのが常であった。麺では腹にたまらなかったのである。そこで初めて入ったその店でも、定食類があったため、私の行動原則に従って、そうした。大盛りを頼もうかと思ったが、なんせもう夜中の12時頃であったため、まあ普通盛で良しとした。
 
 出てきたライスを見て仰天した。こりゃ普通盛どころか、世間でいう特大盛りぐらいのボリュームではないか。やれやれ、謙虚に普通盛で注文してよかったわい。待てよ、しかしそれじゃいったい、この店の大盛りというのは、どんなボリュームなんだか。
 
 

 
 特大盛りライスとの真夜中の衝撃的な出会いのあと、私はすぐにその大盛食堂の虜となった。ここは看板的には札幌ラーメンの店なのであったが、ほとんど誰もここではラーメンを食べない。人気のあるメニューは、ガーリックしょうゆでいためた豚肉を飯の上に乗っけた「スタミナ丼」(略称スタ丼)と、同じ方式でガーリックのかわりに生姜を使った「生姜丼」なのであった。
 
 
 
 スタ丼と生姜丼には、それぞれ、定食仕立てのバージョンがあり、こちらはキャベツの添え物がついていた。しかしスタ丼と生姜丼には、味付け海苔と生卵というトッピングがあり、これが効いていた。私の記憶が正しければ、当時の値段で、スタ丼と生姜丼は450円、定食版のスタミナライスと生姜ライスは480円だった。
 
 さて、肝心の大盛りのボリュームだが、丼ものの大盛りは、ラーメン用のかなり大きな丼に富士山状態で飯が盛られ、その上に肉が乗っているという体であった。噂では、飯の質量だけで1kgはあると言われていた。定食のライスの場合は、丼はそれほど大きくないかわりに、かき氷状態で飯がうず高く盛り上げられていた。
 
 見た目で最も凄かったのは、当時のメニューにあったカレーライスで、この大盛りは、割と平たい皿にしずしずとカレー汁が注がれ、対照的に飯は天をつく勢いで屹立し、さながら雲南省かコルコバードを思わせる風光であった。
 
 この大盛食堂は、カフェで知り合った多摩美術大学や武蔵野美術大学の学生たちとの間でもすぐに話題となり、われわれは〇〇〇〇通信というふざけた手書きのミニコミ新聞を作り、「スタ丼カップ」なるものを開催した。スタ丼の店で同時に食べ始めるところからスタートし、食い終わった者から順に競歩でカフェを目指すというものだった。
 
 下馬評では私が優勝候補であった。あまり丼を下に置かず、持ち上げたまま食い続けるというワザもあった。しかし、競技が開催されると、多摩美の某君が、私を含むほかの参加者約2名を圧倒した。こっちがようやく半分食べ終わったというときに、彼は丼を空にして席を立った。ボーゼンであった。なんで、なんでそんなに早く食えるんだよ、と後で聞いたら、どうも彼は噛まずに食うことができるらしいということがわかった。
 
 良い子は決して、このような人間ブラックホールの真似をしてはいけません。
 
 それから国立のアパートを引き払うまでの数年間、私はスタ丼の店で、生姜丼や生姜ライスを食べ続けた。ときにはチャーシューライスやスタ丼も食べた。チャーシューライスは、弁当状態にしてもらって持ち帰って食べる方が、タレが飯に染み込んで旨かった。
 
 不可避的に私の体重は増えた。その時期には自転車もろくに乗っていなかったから、以前はいくら食べても太らなかったのに、食べるとやはり太る体質になってしまったのであった。大学を出てからも、しばらくの間、仲間に会いに国立のカフェを月に一度くらい訪れることが続いた。その折にも生姜丼を食べたりしていたが、やがてとても普通盛は食べられなくなり、世間で言う「大盛り」に相当する「生姜の半丼」を頼むようになり、そのうち「半々丼」でもいいやと思うようになった。
 
 

 
 数年前に知り合った静岡の有名のお米屋さん、つまりは安東米店の彼と、学生時代の話になったとき、「俺も国立によく出かけたよ」ということを聞き、そればかりか、例のカフェと「スタ丼」にもしばしば足を運んだということを知り、実に一驚した。われわれの学生時代にはタイムラグがあったので、まったく同じ時期に国立をうろうろしていたわけではないが、縁というものは不思議である。
 
 なるほど、今では、日本の食の原点である米をライフワークにしている彼にも、大飯ぐらいのB級食堂に出入した若い日々があったのだ。そしてその時代の私自身は、当然のことながら、飯だけではなく、いろんなことに飢え、あがき、あせっていた。
 
 腹いっぱい飯を食う、というやや哀しい望みは私の場合、スタ丼で満たされた。田舎出の小生意気な若造に、いろんなことを教えてくれたのは、カフェに集う人々だった。彼らは東京の人だから、こういう物言いには、ああそう、と軽く相槌を打つだけだろうが、私のひそやかな感謝と畏敬の念は、彼らと、彼らとの出会いに捧げられている。
 
 そして30歳を超えてなお、あがき続ける自分に、その出力の持って行き場をくれたのは、自転車の旅だった。その自転車の縁で知り合ったアンコメさんと、奇しくも同じ空間に出入していたのだった。
 
 あれから20数年が経ち、国立も様変わりした。当時の「スタ丼」は、多少形を変えたものの、今でも健在であるらしい。近いうちに、アンコメさんと私はそこを訪れるつもりだ。そのときのテーマミュージックは、ずっと前から決めてある。レノン&マッカートニーの、『イン・マイ・ライフ』なのだ。

 

2010/1/27 0:39 投稿者: yhonda (記事一覧) [ 2275hit ]
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