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執筆者プロフィール

白鳥和也

1960年静岡県生まれ。小説家・エッセイスト・自転車文学研究室主宰。
最近、念願の小説本『丘の上の小さな街で 白鳥和也自転車小説集』(えい出版社・えい文庫)を上梓。そのほか著書は『自転車依存症』『素晴らしき自転車の旅』(以上平凡社)』など。自転車の旅と書物と米のご飯をこよなく愛する中年男。
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目次
其の四 のんきな稲
(C)Kiyoaki Nagasaka
(C)Kiyoaki Nagasaka
 昨年、二〇〇五年の七月に、わが自転車の友、アンコメさんに誘われて静岡県中部のとある田んぼを自転車で見に行った。灼けるような暑い日だった。普通そういう日は自転車のツアー向きではないとされているし、熱中症にも充分注意しなければならないけれど、どうも私には暑い日に出かけたことが良く記憶に残るという傾向があるらしく、この日も、忘れがたい一日となった。
 
 夏のツーリングの記憶には、いつもある種の眺めが、どこかしら入り込んでくる。田んぼなのだ。青々と伸びた稲が、路傍を埋め尽くし、その上に盛夏の陽光が輝いている。そういう風景を、あちこちで目にしてきたし、これからも目にするだろう。
 
 アンコメさんと私は、岡部を過ぎたあたりから山裾の道を行き、その道すがら、傍らの田んぼがどのような表情をたたえているのか教えてもらった。自慢ではないが、私は田んぼのことはろくすっぽ知らなかった。田植えや刈り入れだって一度もしたことがないから、毎日食べている飯稲も、食べるという一点でしかふれていなかったのである。
 
 山裾の静かな道は、片側に民家や低い山の斜面、反対側には田んぼという具合で続いていった。魅力的なカーブを辿り、面白い切り通しを抜け、涼しげな神域にお参りしてひと息ついたりした。
 
 その途中、夏の日を浴びた田んぼの傍らで、立ち止まったアンコメさんがいろんなことを教えてくれた。同じ田んぼのなかでも、肥料成分の偏りなどによって稲の成長に差が生じがちなこと。化学肥料を使った一般的な農法では、稲の植えられた状態が相当過密であるということ。そういう過密な状態の稲というものは、台風などの強風に弱いということ、等々。まったく、どれくらい自分が田んぼというものに無知であったか思い知らされたのである。
 
 それから私たちは炎天下をなおも移動し、このところアンコメさんがずっと入れ込んでいるというある田んぼに至った。有機農法でお米を作っている田んぼである。
 
 有機農法というと、ごく一般には、なにか俗世間と隔離された場所で行われているようなことと思われがちだ。人里離れた、非常に清浄な、実験室的なところで営まれている農業。私自身もそういうイメージを持っていたのであった。
 
 ところが、辿り着いたその田んぼは、遠くから見る限り、別になんということもない。周りには新しい住宅地もあるし、そばに二車線の道路だって走っている。そう言ってはなんだが、田んぼに引き込まれる水が、特別に清浄そうだというわけではない。え、と私はしばし唖然としたのであった。
 
 

 
 一九世紀後半から二〇世紀にかけての日本という世界は、急激に都市化や工業化というものが進んだ国土の、ひとつのモデルケースであったのかもしれない。なんせ千年かそれ以上、あまり変化していなかった、自然環境と都市環境、両者の緩衝地帯でもある農業環境のバランスが大きく変わり始めたからだ。
 
 
 
 ヨーロッパでは、いわゆる都市化や自然破壊というものははるかに古い時代から始まっていて、だからこそ昨今の環境意識の高まりも、何も今に始まったことではなく、何世紀にもわたる蓄積の結果である、というようによくいわれる。
 
 そしてわれわれの世代、戦後、高度経済成長期の前半くらいに生まれた人間は、物心ついた頃に、いやというほど汚染や公害の報道を見せられてきた。自分たちが遊び場にしていた「原っぱ」や「広場」が、いつのまにか消え、無機質な新興住宅地や道路に変わってゆくのを目の当たりにしてきた。
 
 子供の頃、そこいらにいくらでも見られたマイマイも、ある時期から、とんと見かけなくなった。鮒のいる小川というのも、近所にはなくなった。ヤンマの飛び交う川筋は、山奥へと後退していった。
 
 そういう記憶が折り重なってきたなかで、有機栽培のお米というのは、農薬と化学肥料で栽培された普通の田んぼとは隔離された空間で作られるのだと思いこむようになっていた。つまり俗界ばなれしたような場所で、そういう有機栽培のお米は生まれるのだと、私自身勘違いしていたのである。
 
 私のイメージのなかでの有機栽培の稲というのは、ある種の絶滅危惧種のように、相当な条件が整わないとそもそも生育が成り立たない、つまり、育てるのにかなり大変な生き物であるという感じだった。
 
 でもそれは大きな誤解であったことが、アンコメさんの話を聞くうちにわかってしまったのである。いやまったく面目ない。勉強足らずであった。だいたい、有機栽培で育つ稲というのは、根も深く張るし、気象の変化にも強いそうなのだ。そう言ってはなんだが、むしろ雑草的な丈夫さを備えている、というか、そのように育てなければ実を結ばないものらしいのだ。
 
 ただ違うのは、生産性だ。有機栽培のお米は、農薬と化学肥料のお米に比べて、圧倒的に単位あたりの空間を必要とする。つまり、過密な状態ではまともに育たないということなのであろう。それは当然、田んぼ面積あたりの収穫量にそのまま反映されるから、生産性という観点で見ると、かなり低いのである。
 
 われわれが子供の頃から、田んぼというものは減り続けてきた。まもなく日本の人口も減少には転ずるというものの、現在までは間違いなく増えてきた。人口が増えてきたのに、水田は減ってきた。そのバランスシートには、単位面積あたりの収量を上げることで、総面積の減少を補うという方程式が隠されていたのだった。
 
 そういうことをアンコメさんに教えてもらいながら、私はその有機栽培の田んぼににじり寄ってみた。市街化調整区域という雰囲気のその田んぼには、よく見ればやたらいろんな生き物がうごめいているのであった。まずもって、田んぼのなかがのんきなのである。なんだか、拍子抜けするくらい緊張感がないのであった。
 
 

 
 そのときそのときの世界観のなかで価値があるとされるものは、ついつい、特別な世界の特別な産物のようにわれわれは信じこみがちである。一種の伝説である。しかし、よくよく考えてみれば、つい百年ほど前までは、日本のお米はすべて有機栽培であったのであろうから、有機の田んぼというのは元来が比較的のんきなものであった可能性が高い。
 
 のんき、のんきと言っているが、実はこの「のんき」の使い方にはひと言説明を加えねばならない。以前、NHKが司馬遼太郎氏の『愛蘭土紀行』に基づいて制作された番組を放映したときに、非常に印象的な一節があった。アイルランドのアラン島という、気候ばかりか、土壌さえもようやく岩盤の上にわずかに張り付いているような非常に条件が厳しいところでも、じゃがいもだけは育つので、これを土地の人は唯一の農作物としているという部分だった。
 
 司馬遼太郎氏は、このじゃがいものことを「のんきな作物」と表現していたのである。そのときはふむ、なかなか面白い言い方だなとだけ思ったが、あとからよくよく考えてみると、これはけっこう重要な発想の転換を象徴する言葉ではないか。
 
 だって、ごくありふれた言い方なら、痩せた土地でも育つ作物のことは、「のんき」などではなく、「辛抱強い」とか「根性がある」とか表現するのが普通のはずなのだ。それらは本来むしろ「のんき」とは正反対の意味さえ含む言葉ではないか。
 
 炎天下の昼下がり、アンコメさんと私は、その田んぼの傍らで、田んぼの主が持って来てくれた麦茶をいただきながら、その田んぼでとれたお米による握り飯をむしゃむしゃと食べていたのであった。
 
 田んぼの主には、いろいろと面白い話を聞かせていただいたのだけれど、最も驚いたのはこういうことだった。やり方を有機栽培に変えたら、それまではどうもあまり良く育たなかった田んぼの一部の区域が、ほかと変わらぬように実るようになった。条件にやや難があるところこそ、むしろ有機栽培の稲の方が良く育ったそうなのである。何だか嘘のような本当の話である。
 

 そのあと、アンコメさんと私は、自転車こぎこぎさらに西に進み、大井川を渡り、汗をだらだら流しつつ、牧の原台地も上り下りして、菊川のそばの田んぼにも立寄らせてもらい、ようよう日も暮れかかる頃にようやく帰途についたのであった。静岡に戻ったら、もう夜中の一二時頃。走行距離約一五〇kmあまり。有機栽培米のカロリーは二人の男の汗だくの一日を、支えてくれたのである。 

2010/1/27 0:37 投稿者: yhonda (記事一覧) [ 2167hit ]
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