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執筆者プロフィール

白鳥和也

1960年静岡県生まれ。小説家・エッセイスト・自転車文学研究室主宰。
最近、念願の小説本『丘の上の小さな街で 白鳥和也自転車小説集』(えい出版社・えい文庫)を上梓。そのほか著書は『自転車依存症』『素晴らしき自転車の旅』(以上平凡社)』など。自転車の旅と書物と米のご飯をこよなく愛する中年男。
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目次
其の一六 おしゃぶり、歯固め、煎餅
(C)Kazuya Shiratori
(C)Kazuya Shiratori
 私は自他ともに認める煎餅好きである。食べ出すと、なくなるまで手が止まらないことが多いので、自分でも困る。なので、大きい袋で買うことは最近ほとんどない。学生のときなど、白鳥の前に煎餅を置くなよ、すぐになくなるからな、と言われた。すみません。
 
 なにしろ煎餅というのは、一枚でけっこうなカロリーがあるから、メタボを気にする中年には、きわめて要注意の食品である。しかしまあ自制するのは本当に難しい。今しがたも、薄焼きの胡椒煎餅を十枚くらい連続で平らげてしまった。
 
 小さなパッケージに分かれているものだったのでそれくらいで済んだが、大きなパッケージだと実に困る。だからともかく最近は、小分けしてあるものを買うようにしている。
 
 米の菓子というものはいろいろあるようだけれど、どうしたって最も人口に膾炙したものはやはり煎餅であろう。味付けの多くは醤油ベースなので、飯好き人間の嗜好にも適っている。海苔が巻いてあるというのも、まさにそれだ。
 
 それになんと言っても、あの音響である。バリバリ、と景気よく噛み砕くときの気持ち良さよ。日本人が食べる食物のなかでは、蕎麦とならんで聴覚的効果がきわめて高いものであることは、疑いを入れない。
 
 
 
 しかしそれがために、煎餅を食べているとすぐに家人に見つかるのである。もういいかげんにしなさいよ、とか、こんな時間に食べると太るよ、という具合である。
 
 外で何か食べたくて、でもおにぎりや調理パンなど適当なものが無かったりした場合、しばしば煎餅が代用食になったりする。そういうときは腹を減らしているので、ふだんに輪をかけて食べ方がラフになる。
 
 その結果、車のシートやセンターコンソール付近に、やや茶色味を帯びた小片が散乱する結果となる。われながら、呆れる。
 
 煎餅というのはまた、何かを見ながら適当に手を伸ばして食べられるようなものでもある。英語で表現すると、ブラインド・ケイク、てな感じかもしれない。まあたいがいは口のサイズに合った大きさなので、よそ見していても食べ損なうということはあまりない。
 
 よって、昔は、「おせんにキャラメル」というのが、野球場などでの売り子さんの口上でもあったようだ。近頃の映画館は食べ物の持ち込みができないので、実際には試してみることは難しいのであるが、ぬれせんならあまり隣の迷惑にもならないかもしれない。
 
 本を読みながら食べる、というのも典型的な食し方であろう。しかしこれにも結果は付いてくるのであって、ページの奥にはさまったせんべいの食べかすというものは、まこともって厄介である。
 
 自分の書いた本が古本屋さんに並んでいると、いささか複雑な思いになるというのが正直なところであり、多くの場合、手にとって開いてしまうが、きっと私はそのうち、中に炭水化物の微細な破片が入ったものに巡り合うのではないかと思っている。
 
 そのほかにもせんべいの食い散らかしによる災害というものはあり、イテテテ、と家の中で足の裏を見たら、固いせんべいの尖った破片がめり込みかけていたというような事例もある。バナナの皮の危険度は非常によく知られているが、煎餅のかけらはそう目立たないので、場合によって被害を大きくする。
 
 夏になると暑くて大変でしょう、という商売のひとつも煎餅屋さんである。おにぎり同様、煎餅も人の手にきわめて近い食品であるから、毎日焼いてくださる方のありがたみもことさらである。今日び、専業の煎餅屋さんはごく小数だが、知らない街を歩いていて煎餅屋さんの前を通りかかったりすると、やはり気になる。
 
 旧い記憶のどこかには、やはり駄菓子屋さんのソース煎餅があり、ガラスのびんから救った煎餅を、透かしのような筋のある白い小さな袋に、しゃららっと入れてもらった情景などもそこに含まれている。
 
 最近はパッケージが進化したためか、しけた煎餅によって肩透かしを食らうようなことはずいぶん減ったし、私の場合はしけるまで開封されたものが残っていることはまずないという事情によるように思われるが、ともかく、しけた煎餅に出会う機会は少ない。
 
 その反作用としてか、先にも書いた「ぬれ煎」というものが生まれたのかも。これはむしろ肩透かしというより、一種のショックアブソーバーのような感じなのであるが、これもくせになるので、困る。
 
 食い物の最後の贅沢は食感だ、と言う定説を逆説的に証明したような感じになっている。なんとなれば、固いはずの食い物がしなしなしていることによって、脳のどこかが「そんなはずはねえ」と反応し、「そんなはずはねえ」「はずはねえ」という感じで、口のほうが繰り返し確認作業に走るような感じで食い続けてしまうのである。
 
 しかしいずれにしても、煎餅のようなものを愛好するには、歯が丈夫でなくてはならない。この点では私は両親に非常に感謝している。最近は一〇年くらい歯科のお世話になっていないが、口腔中に於いて粉砕された煎餅というものは、でんぷんによる粘着性のためか、歯の隙間などに異様にたまりやすいので、これも難儀である。
 
 従って、夜中に煎餅を一枚口にすると、またひときわ面倒な歯磨きをしなければならないのだが、私などは、それがわかっていても、食べてしまう。馬鹿である。
 
 そういう具合で、煎餅を食うことに於いては、一種の誇りのようなものがあったのだが、少し前に、これはかなわんという相手と遭遇した。
 
 その人は、小さな女の子で、当時、ようやく歯が揃ってきたというくらいだったのであるが、私にもなかなか難物であろうという頑丈そうな煎餅を、ばき、ばき、ばき、と可愛い顔をして平気で食べた。横で見ていた私がはらはらするくらいであった。聞けば、いつもそういう感じなのだと。
 
 スケール感を私の口のサイズにすると、どうもレンガに近いくらいのものをかじっている感じじゃなかろうか。煎餅を歯で噛み砕く際には、相当な力がかかり、しかもそれは顎が小さい場合、さらに指数関数的に増すであろうから、驚異的である。
 
 いやはや。参りました。危険なので、あなたのお子様には決して真似させないでください。なおこの子の親御さんは、なかなか有名な米屋さんである。
 
2010/1/27 16:49 投稿者: yhonda (記事一覧) [ 2959hit ]
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